関の兼之は、説明書が「ノサダ」と呼ぶ工で、室町時代後期の美濃伝を伝える二人の代表工の一であり、もう一人は兼元である。初代ヒキサダの子と記され、兼定一門を分かつ二つの名は、ただ「定」の字の切り方を言うにすぎない。ノサダはウ冠の下を「之」にきり、ヒキサダの一群は「疋」にきる。永正元年紀の刀の長銘と大永六年紀の作とが、その記録に残る活動の幅を定め、説明書は和泉守の受領銘を永正七年から大永六年の間に置く。この受領そのものも見逃せない。説明書は古刀期の美濃工が官位を受けるのは珍しいと記し、関におけるノサダの格を示すからである。
本工の知られる手は、練度の高い美濃の作風である。板目が流れて柾がかる地鉄に、尖り刃・頭の丸い互の目・互の目丁子・小のたれを交えた互の目を焼き、足・葉が入り、匂口は締まりごころに小沸がつく。帽子は乱れ込んで小丸に返り、ある作では先尖りごころ、ある作では丸く地蔵風となり、返りはしばしば掃きかける。これを関の他工から分かつものを、説明書は対比として名指す。兼元は三本杉、整然と並ぶ尖り刃の杉形によって名を成したが、説明書はこれを率直に評し、「やや一片倒で変化に乏しい憾があり、兼定はそれに比して作域が広い」とする。兼之の尖り刃は丸みのある刃の中に交わる一要素であって刃文の全部ではなく、目を留めるべきはその変化であって一つの見栄えではない。
地鉄こそ、説明書がその質を置く所である。板目が流れて杢を交え、地沸が細かに地を覆い、その上に淡く白け映りが立つ。室町後期の練れた美濃鉄の冷たい白けた映りである。第三十二回指定の太刀において説明書はこれを明言し、本工が「末関中最もよく練れた鍛え」を見せるとし、同作は地刃に兼之の見どころがよく示されて出来がすぐれると評される。永正元年紀の刀では鉄が冴えて明るく、つんだ板目に流れ肌を交えた地に白け映りが際立って立つ。これらの作の刃文は、その在銘作のほぼ全てに通じる締まりごころの匂口に小沸をつけており、地と刃とは別々の効果ではなく一つの整った手の両面として読める。
その一つの手の中に、説明書はより華やかな態を読み、その語を用いる。作の一部では互の目が開き、焼幅が広がって、大互の目・角ばる刃・矢筈風の刃が互の目丁子とともに入り、処々に荒沸が現れ、細かな砂流しが刃中に流れ、湯走り・飛焼が地に及び、棟焼が棟に走り、帽子は時に丸く地蔵風となって棟焼に続く。大永晩年の作と極められた第四十九回指定の刀はこの作域に属するものと読まれ、焼刃に迫力があり幅広で豪壮な体配が覇気に溢れるとされる。昭和六十年指定の太刀において説明書は同じ作域を兼元との分かれ目とし、そこでは「頭の丸い互の目やのたれ・互の目丁子などの目立つ刃文を焼いて華やか」とする。これは一つの手の態であって別の時代ではなく、同じ出来口の広い端である。
兼之は、古刀美濃の中では年紀の比較的揃った工で、説明書は茎そのものが作の編年とともに移ると記す。前期から中後期にかけては鑢目が鷹の羽で茎先は栗尻、晩年には筋違鑢・入山形へと変わり、説明書はこの変遷を銘振りと併せて作の位置づけに用いる。和泉守藤原兼之の八字銘は、大振りで独特の書体に切られ、それ自体が見どころとして再三挙げられる。生ぶのまま年紀を留める作が数口ある一方、刀の二口は僅かに磨上げられ、一口は銘の作の字の半ばから切られていて、説明書はこれを惜しみつつ、なおその刀を本工の最高作の一に数える。本工は兼元のように一つの刃文を創始した工としてではなく、関の中でより作域の広い、より練れた手として立ち、その伝えた美濃の作風は古刀末から新刀初期に最もよく倣われた様式の一となった。
指定制度を通じて現在に伝わるその記録は、数において控えめで質において揃っている。七口が重要刀剣の格を保ち、いずれも在銘で、国宝・重要文化財に指定されたものはない。これらは概して市場を動く類の刀ではなく、ノサダの刀の格からして、私蔵の一口が市場に現れるのは時折のことで、一度に複数が出ることは稀である。来歴の記録は薄いが皆無ではない。第五十回指定の刀の一口は、説明書が「黒田清隆旧蔵の一口で、『土屋押形』に所載されている」と記す。説明書はノサダの遺産の全体を、数百年来変わらぬ一つの判断で括る。兼定の名を負う数代・数工の中で、「永正・大永頃のノサダが最も技術も優れ」、世の賞玩が厚いとするのである。蒐集する者にとって、健全で年紀のある兼之は、盛期の美濃伝を手にする最も報いの多い道の一であり、説明書の評価する作域の広さ、練れて流れる地鉄、明るく変化に富む刃が、一口の関物の中に揃って見られる。