繁慶は三河の生まれで野田善四郎清堯といい、元、徳川家に抱えられた鉄砲鍛冶であったが、元和二年の家康歿後、江戸に出て刀鍛冶に転じた。初代康継とほぼ時代を同じくし、説明書はこれを「江戸鍛冶の先駆者」と位置づけ、「初期新刀中相州伝を摸して成功している一人である」とする。師伝は明らかでなく、一説に康継、又は綱広というが定かでない。しかも「彼の作刀には年紀のあるものが皆無」であるため、慶長十七年紀の前銘清堯銘の鉄砲(奉納刀を蔵する出雲の神社に併せ所蔵される)と、寛永十年の高野山金剛峰寺奉納の文書とが編年の拠り所となる。
説明書はほぼ全口にわたって一文を繰り返す。「彼が理想としたところは相州正宗にあったとされる」が、「作刀の上からはむしろ則重」である。鍛えは板目に大板目・杢・流れ肌を交えて強く肌立ち、地沸厚く、黒く太い地景が絶え間なく入って、「ひじき肌」と称せられる独特な肌合となり、かねは黒みをおびる。説明書は「ひじきは海藻の一種である」と語義まで説き、「繁慶肌ともひじき肌ともいわれる」とも記す。さらに「混ぜがね鍛は彼の得意とするところで、世にひじき肌、松皮肌などと称せられ」とあるように、硬軟の鋼をまぜたこの鍛えは鉄砲鍛冶の前身に発する。指定書全体でこの語は彼自身と門人繁昌の説明にしか現れない。
刃文は浅いのたれに互の目・小互の目を交え、匂深く、沸が厚く強くつき、荒めの沸がむらに交じり、ほつれ・湯走りを交え、総体に砂流しがかかって金筋・沸筋が長く入り、「匂口が沈んで地刃の境が判然としない」のが常である。肌立ち・荒沸・沈む匂口のいずれにおいても本歌の則重より一段と強く、則重が松皮肌に明るい刃を保つのと分かれる。則重同様の三ツ棟で棟のおろしが急な造込みにもその狙いが窺われ、帽子はさかんに掃きかけて火焰風となる。姿は身幅広めか尋常で重ね厚く、反り浅く、慶長の工ながら中鋒のさほど延びないものが多い。
この常型に対して説明書は二つの作域を繰り返し指摘する。「総じて静穏な作柄」に纏まり上品さと古色を感じさせる一類と、「大きく華やかに且つ複雑に乱れ」て覇気に充ちる一類である。匂口の明るく穏やかな作は「清堯銘の作域に相通じるものがある」と初期に引きつけて読まれる。平造の脇指・短刀の遺例は僅少で、平造脇指は経眼三口のみ、形態は幅広寸延び・庖丁風・細身寸延びの三様に大別され、袋薙刀一口は同工には珍しい穏やかな中直刃を焼き、欄間透の倶利迦羅を彫った特別重要の脇指は同作中この一口のみと特筆される。
銘そのものが見どころである。一般の刀工の切り銘に対して太鏨で彫り出す大振りの二字の彫銘を、先薬研形、表大筋違・裏逆大筋違、深い両区という独創の茎に施す。「その茎仕立は彼の独創であり、銘も彫鏨を用いて特殊のものである」。深い両区と彫銘は「後世に磨上げ無銘にされない用心の為とも伝えている」。「又」は壮年銘、「ル又」は晩年銘とされ、草体の太鏨銘も晩年と読まれる。姓は野田・小野の両様に記され、出雲国日御碕神社の奉納刀は「奉納出雲国日御崎霊神」の銘の下に小野繁慶と銘する。「神仏に対して信心の強い刀工らしく、当社のみならず諸国の神社仏閣に自作の刀あるいは鉄砲を寄進している」。特別重要の短刀は「理想とした則重の域に迫る」と評される一方、彼の短刀は浅く反りがつき「則重特有の筍反りにはなっていない」。門流には和泉守兼重・繁昌が数えられ、繁昌の指定書には「ひじき肌」の語まで借りられる。
藤代の極めは最上作。指定を受けた作は五一口、うち在銘五〇口、無銘は一口もない。重要文化財三口・重要美術品六口を戴き、特別重要刀剣六口・重要刀剣三五口、計四一口がその下に連なる。伝来には有馬家(同作中の白眉と評される特別重要の刀を伝えた)・島津家・西条松平家・皇室が挙がり、日御碕神社の奉納刀は今も同社に伝わる。重要の一口には永井信濃守の手前での山野加右衛門による三ッ胴截断の記録、別の一口には前橋藩老宮部茂席の金象嵌所持銘が併う。重要文化財と奉納刀は文化財として永く守られ、収集家が現実に出会いうるのは特別重要・重要の層であるが、それとて市に現れることは稀で、現れた一口にはひじき肌、沈む匂口、独創の茎の彫銘と、繁慶のすべてが備わる。