説明

播磨国姫路の城下町に生まれた正繁(1760-1830)は、本名を三木朝七といいます。二代氏繁の次男として生まれましたが、三代目を継いだ兄が早世したため、一時的に四代氏繁を襲名しました。 天明期(1780年代)に大坂へ移り、その後、陸奥国白河藩主・松平定信(楽翁公)のお抱え工となり、江戸へ移住して作刀に励みました。享和三年(1803年)には「甲斐守」を受領。また、主君よりその技量を高く評価され「神妙」の二字を賜りました。この「神妙」の冠銘は、自身の会心の出来映えにのみ刻んだと伝えられています。また、別号として「丹霞斎」と称することもありました。新々刀の開祖である水心子正秀の門に学んだとも言われています。 作風は、身幅広く、肌は詰んだ小板目肌となります。刃文は互の目に大互の目が交じる「濤乱刃(とうらんぱ)」を焼き、足入り、沸つき、矢筈風の刃を交えるなど華やかです。地刃ともに明るく冴え、匂口は深く明るく仕上がります。 藤代松雄氏の『日本刀工辞典』においては、上々作に列せられています。 注釈 1. Markus Sesko著『Swordsmiths of Japan A-Z』559頁(2014年) 2. 藤代松雄著『日本刀工辞典』(1961年) 【体配】 鎬造、庵棟、鳥居反り

Wakizashi by Tegarayama Kai no kami Masashige
Tokuho

Wakizashi by Tegarayama Kai no kami Masashige

脇差

€10,000

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仕様

長さ

45.2 cm

反り

1.1 cm

元幅

3.1 cm

先幅

2.4 cm

流派について

Tegarayama School手柄山派

手柄山は播磨国姫路を本拠とする新々刀期の一門で、説示によれば手柄山の麓に住したことから代々その地名を姓としたという。一門の中心となる正繁は、通称を朝七といい丹霞斎と号した工で、三代目手柄山氏繁の弟にあたり、初め四代目氏繁を襲名したのち正繁と改めている。初代大和大掾氏重の末葉であると記され、播州姫路に系譜を引く家系であることがうかがえる。天明八年、奥州白川(白河)の藩主松平定信の抱え鍛冶となって江戸に移り住み、神田駿台を作刀の地とした。享和三年四月には甲斐守を受領し、文政の初年頃には一時大坂でも鍛刀したのち再び江戸に戻っている。晩年には楽翁すなわち松平定信から「神妙」の二字を賜り、会心の作にこれをきったと伝える。一説に江戸に出て水心子正秀に学んだとも記され、姫路に発した手柄山の鍛冶が藩公の抱え工として江戸へ展開していった経緯が説示の各所に共通して語られる。 作風は、説示が一様に記すとおり、津田越前守助広に私淑した濤瀾風の大互の目乱れを本領とする。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が厚くつき、地景が細かに入って地鉄の冴える点が共通して挙げられる。刃文は元を直ぐに焼き出し、その上にのたれや大互の目を交えて濤瀾状の乱れを焼き、足・葉が入り、匂深く小沸がむらなく厚くつくものが多い。処々で強く沸づき、飛焼・湯走り・棟焼・島刃を見せ、砂流しがかかり金筋が頻りに入って、匂口が明るく冴えるのを特色とする。帽子はおおむね直ぐに小丸へ結び、掃きかけのかかるものもある。乱れの間に尖りごころの刃を交えるのは同工の特色と説示が指摘しており、また矢筈風の刃を交える作も認められる。濤瀾乱を主調としながら、説示にいう浅いのたれや直刃の作域も併せ持つ。茎は生ぶで先を浅い入山形とし、鑢目を大筋違に化粧をかけ、指表棟寄りに太鏨大振りの長銘を、裏に年紀や作刀地・注文者銘をきる構成が、見分けの手がかりとして繰り返し記されている。 鑑定の要点は、整然と崩れず焼かれた大互の目を主調とする濤瀾乱、むらなく厚くつく小沸、明るく冴える地刃の働き、そして尖りごころの刃という同工の癖にある。説示には、珠追龍や梵字・三鈷柄剣、昇龍といった刀身彫刻を正繁自身が手がけた作が挙げられ、茎にその旨を記すものもあって資料的価値が高いとされる。年紀のあるものは寛政から享和に及び、東武駿台・武陽駿岱と記す江戸作のほか、石州出羽の鉄を用いたと銘するものや、古河藩士小杉為長、渡辺崎右衛門美政らの注文に応じた作が伝わる。松平定信の抱え工として江戸に出て助広風の濤瀾乱を得意とした上手の工として、説示は手柄山正繁を新々刀の一典型に位置づけている。

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