室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
日本刀 刀 氷心子(切付銘)/相州住助広 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付 【解説】 概要 本作の茎(なかご)には、表に「氷心子」、裏に「相州住助広」の銘が刻まれています。日本美術刀剣保存協会(日美協)の鑑定によれば、これらは「切付銘(きりつけめい)」とされています。 これは、氷心子こと氷心子秀世(ひょうしんし ひでよ)が、依頼を受けて本作を磨上げ(すりあげ:長さを切り詰めること)た際、元の銘が失われるのを惜しみ、本来の作者である「助広」の名を自ら刻み直したものです。したがって、表裏両面の銘は秀世の手によるものです。以下に、氷心子秀世と相州住助広について解説いたします。 氷心子秀世について 秀世は本名を田村軍平といい、当初は七代目石堂運寿了一(石堂運寿是一)に作刀を学びました。後に江戸新々刀の祖である水心子正秀(すいしんし まさひで)の門下となり、文政から嘉永年間(1818-1848年)にかけて活躍しました。 江戸の麻布に住し、師である正秀の養嗣子(婿養子)となって「氷心子」の号を継承しました。正秀の晩年には、師に代わって作刀や銘を切る「代作・代銘」を多く務めたと伝えられています。これは、師である正秀が秀世の技量を極めて高く評価し、全幅の信頼を寄せていた証と言えるでしょう。 相州住助広について 相州住助広は、室町時代後期の相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀工です。五ヶ伝の一つである「相州伝」の伝統を継承した作刀を行いました。 相州伝は鎌倉時代中期に誕生しました。当時、大和伝や山城伝は既に高度な発展を遂げていましたが、関東(相模)における作刀技術は未だ揺籃期にありました。 1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、当初、政治的安定のための体制づくりを優先しており、お抱えの刀工を育成する余裕がありませんでした。そのため、幕府は当初、大和や山城といった他国の刀工に武器の調達を頼っていました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、御家人たちからの武器需要は飛躍的に増大しました。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も、備前より福岡一文字助真を招きました。 これら三名が相州伝の基礎を築く上で重要な役割を果たしたとされています。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が現れ、その卓越した技術は弟子の行光へと受け継がれました。そして、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗が、行光の門より登場します。正宗によって相州伝は完成され、その名は天下に轟きました。正宗が確立した様式は、後の刀工たちの模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与え続けています。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」に鑑定された一振りです。この鑑定書は、保存状態が良く、資料的・美術的価値が高い真作の日本刀に対してのみ発行されるものです。
























相模 · 1469-1487頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 刀 氷心子(切付銘)/相州住助広 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付 【解説】 概要 本作の茎(なかご)には、表に「氷心子」、裏に「相州住助広」の銘が刻まれています。日本美術刀剣保存協会(日美協)の鑑定によれば、これらは「切付銘(きりつけめい)」とされています。 これは、氷心子こと氷心子秀世(ひょうしんし ひでよ)が、依頼を受けて本作を磨上げ(すりあげ:長さを切り詰めること)た際、元の銘が失われるのを惜しみ、本来の作者である「助広」の名を自ら刻み直したものです。したがって、表裏両面の銘は秀世の手によるものです。以下に、氷心子秀世と相州住助広について解説いたします。 氷心子秀世について 秀世は本名を田村軍平といい、当初は七代目石堂運寿了一(石堂運寿是一)に作刀を学びました。後に江戸新々刀の祖である水心子正秀(すいしんし まさひで)の門下となり、文政から嘉永年間(1818-1848年)にかけて活躍しました。 江戸の麻布に住し、師である正秀の養嗣子(婿養子)となって「氷心子」の号を継承しました。正秀の晩年には、師に代わって作刀や銘を切る「代作・代銘」を多く務めたと伝えられています。これは、師である正秀が秀世の技量を極めて高く評価し、全幅の信頼を寄せていた証と言えるでしょう。 相州住助広について 相州住助広は、室町時代後期の相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀工です。五ヶ伝の一つである「相州伝」の伝統を継承した作刀を行いました。 相州伝は鎌倉時代中期に誕生しました。当時、大和伝や山城伝は既に高度な発展を遂げていましたが、関東(相模)における作刀技術は未だ揺籃期にありました。 1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、当初、政治的安定のための体制づくりを優先しており、お抱えの刀工を育成する余裕がありませんでした。そのため、幕府は当初、大和や山城といった他国の刀工に武器の調達を頼っていました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、御家人たちからの武器需要は飛躍的に増大しました。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も、備前より福岡一文字助真を招きました。 これら三名が相州伝の基礎を築く上で重要な役割を果たしたとされています。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が現れ、その卓越した技術は弟子の行光へと受け継がれました。そして、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗が、行光の門より登場します。正宗によって相州伝は完成され、その名は天下に轟きました。正宗が確立した様式は、後の刀工たちの模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与え続けています。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」に鑑定された一振りです。この鑑定書は、保存状態が良く、資料的・美術的価値が高い真作の日本刀に対してのみ発行されるものです。
























相模 · 1469-1487頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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