商品番号 UJKA476 – カタログ 45 – 売約済 江戸三代康継 刀 (銘:葵紋 康継以南蛮鉄於武州江戸作之) 新刀期において最も高名な一派の一つが、この康継家です。越前下坂派の鍛冶であった初代康継が徳川家康公に召し抱えられ、江戸に下向したことに始まるこの家系は、精緻な技術と将軍家御用鍛冶としての地位を不動のものとしました。茎の最上部に刻まれた「葵紋」は単なる装飾ではなく、幕府の御用を務めた証として、徳川家より特別に許された権威の象徴です。三代康継(俗名:下坂市之丞)は、17世紀半ばの寛文・延宝期にかけてその伝統を静かに、かつ確固たる実力で継承しました。その作風は、均整の取れた体配と洗練された地肌を特徴とし、地方鍛冶の野心とは一線を画す、御用鍛冶らしい品格と抑制の美を湛えています。 本作は、三代康継が37歳の充実期にあたる寛文六年二月に江戸で打たれた一振りです。長さは二尺四寸一分(72.9cm)と堂々たる体配で、鎬造りに中筋違の美しい中鋒、そして刀身を軽量化しつつも存在感を損なわない二筋樋(ふたつび)が掻き通されています。地肌は板目に小木目が詰み、地沸厚くつき、鮮やかな地景が入り、平地に淡く映りが立つなど、南蛮鉄を巧みに使いこなした康継真骨頂の出来映えです。刃文は気品ある直刃に小互の目が交じり、足入り、明るく冴えます。帽子は大丸に返り、掃き掛けを伴います。茎の底部にある控えの目釘孔は、本作が試斬に用いられたか、あるいは実戦での実用を強く意識して仕立てられたことを示唆しています。 附帯する江戸期の拵は、幕末(1780-1868年)に制作された保存状態の良い黒呂漆塗打刀拵で、NTHK-NPO(日本刀剣保存会)の鑑定書が付されています。鐔は佐野直吉(佐野直)の作と極められており、赤銅磨地に秋草図を四分一(しぶいち)の象嵌で描いた、江戸の粋を感じさせる名品です。 鑑定:NTHK-NPO 鑑定書附 (刀身および拵) 種別:刀 銘:葵紋 康継以南蛮鉄於武州江戸作之 裏銘:寛文六年二月吉日 長さ:72.9 cm 反り:1.2 cm 元幅:3.1 cm 先幅:2.1 cm 元重:0.7 cm 目釘孔:2個 形状:鎬造、庵棟、二筋樋 地鉄:板目肌、地沸つく、地景・映りあり 刃文:直刃、小互の目交じり、足入り、明るい 帽子:大丸、掃き掛け 茎:生茎、葵紋、筋違鑢、入山形 拵: 黒呂漆塗打刀拵(幕末期) 鐔:赤銅磨地 秋草図 四分一象嵌(佐野直吉 銘) 縁頭:赤銅 獅子図 目貫:赤銅 獅子図
在銘 · Shimosaka (yasutsugu Lineage) · 寛文 · 長さ 72.9cm · 反り 1cm

Edo 3rd-generation Yasutsugu (Shimosaka line) · 武蔵 · 1661-1673頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在4点販売中
康継の江戸三代の現存する刀は、いずれも徳川の葵紋の下に同じ長銘を切る。茎の鍔元に葵紋をきり、その下に「康継以南蛮鉄於武州江戸作之」[[c:1]]と、南蛮鉄を以て武州江戸に作るむねを刻む。説明書によれば、彼は二代康継の嫡子として生まれ、右馬助と称したという。父二代の歿した時わずか十七歳で、初代の三男四郎右衛門を三代に立てようとする一派があり、家督相続の争いがおこったが、結局右馬助が三代を継ぎ、叔父四郎右衛門は越前家を相続し、ここに下坂家は江戸と越前の両系に分れた。彼は寛文頃に作刀し、歿年は不明である。下坂の名は、家康より葵紋と康の一字を賜った初代に発する。
その手は、まず初・二代との対比に定まる。覇気に富んでやや荒々しい初・二代の出来に比べ、説明書は三代をおとなしくまとまったものとよみ、その刃を二様に整理する。前者は直刃を主調に浅くのたれをおびたもの、後者は小のたれに互の目を交え、時に頭の丸い互の目が連れて交じる乱れである。いずれの様にも小足が入り、匂深く、沸がよくつく。元に直ぐの焼出しを置くことが多く、これを説明書は初・二代に見られぬ同工の特色とし、当時の江戸物に近い作風とよむ。
鍛えは板目、しばしばよくつんだ小板目に杢・流れ肌を交え、時に肌立ちごころとなる。地沸は微塵に厚くつき、地景入り、かねは総じて黒みをおびる。帽子は直ぐに小丸、深く返り、時に先掃きかける。その深い返りを、説明書は祖父・父にあたる初・二代の手癖に直に結ぶ。第三十九回の一口には帽子に三品風の面影があるとし、黒みのある地鉄、沈みごころの匂口とあわせて、「三品風の面影があるところなどには、伝統的な越前物の特色」[[c:2]]が表されるとよむ。
三代の持味は、二様を初・二代に照らすところに現れる。第三十六回の刀に、説明書は、初・二代に比して「鍛えがつまって綺麗であり」[[c:3]]、刃は「匂口はむしろ明るいなど」[[c:4]]と評し、三代を見分ける見どころを名ざす。第六十二回の刀はこの読みをさらに進め、匂口深く沸むらなくつくところを法城寺一派や馬徹等の江戸物に近いとし、当時の流行を取り入れた江戸三代の「持味があらわれた」[[c:5]]一口とする。署名にも一貫した手癖があり、長銘の字が茎先にかけて次第に小さくなるさまを、説明書は「字体の大きさが茎先にかけて次第に小さくなるのが銘字の手癖」[[c:6]]と記す。
彼は他流ではなく、終始その家系に照らして読まれる。最も早い第十七回の刀に、説明書は「あたかも法城寺一派の作を見るような感がある」[[c:7]]と評し、同じ法城寺・馬徹との通いは第六十二回にも戻る。三代についての正直な評もまた同じ説明にある。現存作は比較的少なく、父祖に遠く及ばず、初・二代に頻りな刀身彫刻もまた殆んど稀となる。ゆえに彼の位置は革新者ではなく、下坂派の江戸の継承者にあり、家の直刃と小のたれの作風を保ちつつ、江戸物の綺麗な鍛えと明るい匂を作中に容れた工である。
作はいずれも重要刀剣の位にあり、現在八口を数え、それより上の指定はなく、藤代の評は上々作である。うち第二十三回の刀一口は、寛文七年十二月二十一日の年紀をもち、裏に山野勘十郎久英による金象嵌の截断銘を負う、江戸初期の試刀の風を伝えるものである。この八口に大名の伝来や所蔵機関の記載はなく、その来歴を明らかに辿る手がかりは乏しい。蒐集家が実際に出会いうるのは、述べた直刃あるいは小のたれの一口で、生ぶの茎に葵紋と、先へ細る南蛮鉄の長銘を切るものである。それが市に現れるのは折にふれてであって頻繁ではなく、家康の葵紋の下賜に発する下坂派の、より綺麗で明るい江戸の顔として、一手の出来以上に下坂の名の重みを帯びる。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 越前
現在54点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトAll swords come with a three-day inspection period beginning from the date of delivery. If not satisfied, the sword may be returned within this period for a full refund of the purchase price. Outside of this period, all sales are final. Swords purchased on a layaway payment plan are not eligible for the three-day inspection period.
商品番号 UJKA476 – カタログ 45 – 売約済 江戸三代康継 刀 (銘:葵紋 康継以南蛮鉄於武州江戸作之) 新刀期において最も高名な一派の一つが、この康継家です。越前下坂派の鍛冶であった初代康継が徳川家康公に召し抱えられ、江戸に下向したことに始まるこの家系は、精緻な技術と将軍家御用鍛冶としての地位を不動のものとしました。茎の最上部に刻まれた「葵紋」は単なる装飾ではなく、幕府の御用を務めた証として、徳川家より特別に許された権威の象徴です。三代康継(俗名:下坂市之丞)は、17世紀半ばの寛文・延宝期にかけてその伝統を静かに、かつ確固たる実力で継承しました。その作風は、均整の取れた体配と洗練された地肌を特徴とし、地方鍛冶の野心とは一線を画す、御用鍛冶らしい品格と抑制の美を湛えています。 本作は、三代康継が37歳の充実期にあたる寛文六年二月に江戸で打たれた一振りです。長さは二尺四寸一分(72.9cm)と堂々たる体配で、鎬造りに中筋違の美しい中鋒、そして刀身を軽量化しつつも存在感を損なわない二筋樋(ふたつび)が掻き通されています。地肌は板目に小木目が詰み、地沸厚くつき、鮮やかな地景が入り、平地に淡く映りが立つなど、南蛮鉄を巧みに使いこなした康継真骨頂の出来映えです。刃文は気品ある直刃に小互の目が交じり、足入り、明るく冴えます。帽子は大丸に返り、掃き掛けを伴います。茎の底部にある控えの目釘孔は、本作が試斬に用いられたか、あるいは実戦での実用を強く意識して仕立てられたことを示唆しています。 附帯する江戸期の拵は、幕末(1780-1868年)に制作された保存状態の良い黒呂漆塗打刀拵で、NTHK-NPO(日本刀剣保存会)の鑑定書が付されています。鐔は佐野直吉(佐野直)の作と極められており、赤銅磨地に秋草図を四分一(しぶいち)の象嵌で描いた、江戸の粋を感じさせる名品です。 鑑定:NTHK-NPO 鑑定書附 (刀身および拵) 種別:刀 銘:葵紋 康継以南蛮鉄於武州江戸作之 裏銘:寛文六年二月吉日 長さ:72.9 cm 反り:1.2 cm 元幅:3.1 cm 先幅:2.1 cm 元重:0.7 cm 目釘孔:2個 形状:鎬造、庵棟、二筋樋 地鉄:板目肌、地沸つく、地景・映りあり 刃文:直刃、小互の目交じり、足入り、明るい 帽子:大丸、掃き掛け 茎:生茎、葵紋、筋違鑢、入山形 拵: 黒呂漆塗打刀拵(幕末期) 鐔:赤銅磨地 秋草図 四分一象嵌(佐野直吉 銘) 縁頭:赤銅 獅子図 目貫:赤銅 獅子図
在銘 · Shimosaka (yasutsugu Lineage) · 寛文 · 長さ 72.9cm · 反り 1cm

Edo 3rd-generation Yasutsugu (Shimosaka line) · 武蔵 · 1661-1673頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在4点販売中
康継の江戸三代の現存する刀は、いずれも徳川の葵紋の下に同じ長銘を切る。茎の鍔元に葵紋をきり、その下に「康継以南蛮鉄於武州江戸作之」[[c:1]]と、南蛮鉄を以て武州江戸に作るむねを刻む。説明書によれば、彼は二代康継の嫡子として生まれ、右馬助と称したという。父二代の歿した時わずか十七歳で、初代の三男四郎右衛門を三代に立てようとする一派があり、家督相続の争いがおこったが、結局右馬助が三代を継ぎ、叔父四郎右衛門は越前家を相続し、ここに下坂家は江戸と越前の両系に分れた。彼は寛文頃に作刀し、歿年は不明である。下坂の名は、家康より葵紋と康の一字を賜った初代に発する。
その手は、まず初・二代との対比に定まる。覇気に富んでやや荒々しい初・二代の出来に比べ、説明書は三代をおとなしくまとまったものとよみ、その刃を二様に整理する。前者は直刃を主調に浅くのたれをおびたもの、後者は小のたれに互の目を交え、時に頭の丸い互の目が連れて交じる乱れである。いずれの様にも小足が入り、匂深く、沸がよくつく。元に直ぐの焼出しを置くことが多く、これを説明書は初・二代に見られぬ同工の特色とし、当時の江戸物に近い作風とよむ。
鍛えは板目、しばしばよくつんだ小板目に杢・流れ肌を交え、時に肌立ちごころとなる。地沸は微塵に厚くつき、地景入り、かねは総じて黒みをおびる。帽子は直ぐに小丸、深く返り、時に先掃きかける。その深い返りを、説明書は祖父・父にあたる初・二代の手癖に直に結ぶ。第三十九回の一口には帽子に三品風の面影があるとし、黒みのある地鉄、沈みごころの匂口とあわせて、「三品風の面影があるところなどには、伝統的な越前物の特色」[[c:2]]が表されるとよむ。
三代の持味は、二様を初・二代に照らすところに現れる。第三十六回の刀に、説明書は、初・二代に比して「鍛えがつまって綺麗であり」[[c:3]]、刃は「匂口はむしろ明るいなど」[[c:4]]と評し、三代を見分ける見どころを名ざす。第六十二回の刀はこの読みをさらに進め、匂口深く沸むらなくつくところを法城寺一派や馬徹等の江戸物に近いとし、当時の流行を取り入れた江戸三代の「持味があらわれた」[[c:5]]一口とする。署名にも一貫した手癖があり、長銘の字が茎先にかけて次第に小さくなるさまを、説明書は「字体の大きさが茎先にかけて次第に小さくなるのが銘字の手癖」[[c:6]]と記す。
彼は他流ではなく、終始その家系に照らして読まれる。最も早い第十七回の刀に、説明書は「あたかも法城寺一派の作を見るような感がある」[[c:7]]と評し、同じ法城寺・馬徹との通いは第六十二回にも戻る。三代についての正直な評もまた同じ説明にある。現存作は比較的少なく、父祖に遠く及ばず、初・二代に頻りな刀身彫刻もまた殆んど稀となる。ゆえに彼の位置は革新者ではなく、下坂派の江戸の継承者にあり、家の直刃と小のたれの作風を保ちつつ、江戸物の綺麗な鍛えと明るい匂を作中に容れた工である。
作はいずれも重要刀剣の位にあり、現在八口を数え、それより上の指定はなく、藤代の評は上々作である。うち第二十三回の刀一口は、寛文七年十二月二十一日の年紀をもち、裏に山野勘十郎久英による金象嵌の截断銘を負う、江戸初期の試刀の風を伝えるものである。この八口に大名の伝来や所蔵機関の記載はなく、その来歴を明らかに辿る手がかりは乏しい。蒐集家が実際に出会いうるのは、述べた直刃あるいは小のたれの一口で、生ぶの茎に葵紋と、先へ細る南蛮鉄の長銘を切るものである。それが市に現れるのは折にふれてであって頻繁ではなく、家康の葵紋の下賜に発する下坂派の、より綺麗で明るい江戸の顔として、一手の出来以上に下坂の名の重みを帯びる。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 越前
現在54点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトAll swords come with a three-day inspection period beginning from the date of delivery. If not satisfied, the sword may be returned within this period for a full refund of the purchase price. Outside of this period, all sales are final. Swords purchased on a layaway payment plan are not eligible for the three-day inspection period.