説明

特別保存刀剣鑑定書付 刀 銘:出羽大掾藤原国路 【解説】 本作は、江戸時代初期(元和〜明暦年間:1615-1658年)の山城国で活躍した名工、出羽大掾藤原国路(でわだいじょうふじわらくにみち)の手による一振りです。国路は当初、三品派に属していましたが、後に堀川国広の門下に入ったと伝えられています。銘振りには「平安城国路」「平安城住国路」「出羽大掾藤原来国路」などが見られます。 天正4年(1576年)に生まれ、慶長13年(1608年)頃から本格的な作刀活動が確認されています。初期には「国道」と銘じていましたが、これは伊賀守金道など三品派の職人が「道」の字を好んで用いた影響と考えられ、彼が三品派の出自であることを示唆しています。また、晩年には銘に「来」の字を冠していますが、これも当時の三品派の刀工に見られる大きな特徴の一つです。 慶長14年(1609年)頃から「国道」と「国路」の両銘を併用し始め、次第に「国路」へと移行しました。慶長20年(1615年)には、その優れた技量が認められ、朝廷より「出羽大掾」の受領銘を許されています。本作にはこの受領銘が刻まれていることから、彼が円熟期を迎え、その技を遺憾なく発揮していた1615年以降の作であることが分かります。 師である堀川国広が慶長18年(1613年)に没した後、国路は再び三品派の伊賀守金道に師事し、その技法をさらに深めたと言われています。 国路は堀川門下の中でも屈指の実力者であり、特に美濃伝の技法において卓越した手腕を見せました。その作品のうち、二振りが重要文化財、五振りが重要美術品に指定されるなど、美術的価値は極めて高く評価されています。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術品としての価値が特に高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※刀身には僅かな鍛え傷と薄い錆が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.2 cm 反り(Sori):1.4 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる、結晶構造による文様。 地鉄(Jihada):折り返し鍛錬によって生じる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる持ち手部分。 日本刀の茎には、赤錆を防ぐために意図的に「黒錆」が残されます。この経年による錆色は、専門家が製作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などで構成される日本刀の外装。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具。 本品の縁頭には、日本を象徴する花である「桜」が意匠されています。五弁の花びらが美しく表現されており、古来より日本人に愛されてきたその風情が、赤銅や四分一といった伝統的な素材を用いて見事に描き出されています。

Antique Japanese Sword Katana Signed by Kunimichi NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Katana Signed by Kunimichi NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

$9,905

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仕様

長さ

71.2 cm

反り

1.4 cm

流派について

Horikawa School堀川派

堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。

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