説明

特別保存刀剣鑑定書付 肥前国河内大掾藤原正広 刀 【解説】 本作は「肥前国河内大掾藤原正広」と銘のある御刀です。 正広は佐賀県にあたる肥前国で活躍した名工であり、「河内大掾」は優れた技術を持つ刀工に与えられる受領銘です。 正広の名は江戸時代を通じて数代続きますが、本作は寛永から万治年間(1624-1661年)にかけて活躍した初代正広の手によるものと推測されます。 正広の系譜は、江戸初期に肥前刀の祖である初代忠吉が興した一門に遡ります。 初代忠吉は日本刀史上、江戸初期を代表する最高峰の刀工の一人です。 初代正広もまた、その卓越した技量で知られた名工でした。正広は17歳の若さで、1607年に肥前佐賀藩主となった鍋島勝茂公に仕え始めます。 彼は鍋島家の「御抱え鍛冶」に抜擢されました。これは藩専属の刀工として認められたことを意味し、有力大名に仕えることは刀工にとって極めて名誉なことでした。その技量は師である忠吉の代作を任されるほどであったと伝えられています。 当時、肥前国は海外貿易の拠点として繁栄していました。初代正広をはじめとする肥前刀工たちは、鍋島藩の庇護のもと、南蛮鉄(西洋から輸入された鉄)を巧みに組み合わせることで、肥前刀特有の美しい肌合い(小糠肌)を生み出しました。この地理的条件が、肥前刀独自の美しさを支えていたのです。 (初代忠吉について) 正広の師(父系)である初代忠吉は、佐賀藩に生まれました。慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、江戸初期の巨匠・埋忠明寿の門を叩きます。二年後の慶長三年(1598年)に帰国。その腕を高く評価した鍋島勝茂公により御抱え鍛冶に任じられ、佐賀城下に居を構えました。彼が築いた肥前忠吉家からは、江戸時代を通じて100名を超える刀工が輩出されており、正広はその中でも筆頭に挙げられる名手です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が良く、かつ美術的価値が極めて高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※本作には一部に欠けおよび埋金(修復跡)がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.5 cm 反り(Sori):1.0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様 茎(Nakago): 日本刀の柄に収まる持ち手にあたる部分です。刀工はあえて茎に黒錆を残すことで、柄内部での赤錆の発生を防ぎました。この茎の錆色は時の経過とともに深まり、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae): 日本刀の外装です。鞘、柄、鍔などの各部品で構成されています。 縁頭(Fuchi-Kashira): 柄の上下を保護する一対の金具です。

Antique Japanese Sword Katana Signed by Masahiro NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Katana Signed by Masahiro NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

$7,751

世界81社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ

仕様

長さ

71.5 cm

反り

1 cm

流派について

Hizen Tadayoshi School肥前忠吉派

肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。

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