Q518. 大磨上無銘 刀(南紀重国 鑑定) 長さ:67.3 cm(二尺二寸二分) 反り:0.7 cm 元幅:3.0 cm 元重:0.8 cm 先幅:1.9 cm 先重:0.5 cm 茎長:24.0 cm 拵全長:95.0 cm 【形状】 大磨上無銘。腰反りつき、庵棟、中切先。 【鍛え】 小板目肌つみ、刃寄りに柾目流れる。 【刃文】 直刃調に小互の目交じり、足よく入り、細かな働き盛ん。匂口明るく冴え、小沸よくつく。 【帽子】 刃文そのままに直に走り、中丸へ短く返る。 【状態】 研ぎ上がり。極めて健全で、僅かなヒケを除き欠点なし。赤銅一重木ハバキ(凹みあり)。 【鑑定・附属品】 NPO法人日本刀剣保存技術研究会(NTHK)鑑定書(2006年付) 刀身:「初代 南紀重国」 拵:「黒漆塗鞘打刀拵」 (鑑定書の和訳あり。現在、商品画像に鑑定書が表示されない不具合があるため、確認を希望される方はメールにてご連絡ください。) 【拵】 鞘は黒漆塗で状態良好。鐔は鉄地、銘「正阿弥」。縁頭は赤銅魚子地に金・赤銅・銅の三色で木の葉を配した優品。目貫は金・赤銅。拵全体として保存状態は極めて良好。正絹の刀袋が付属します。 【解説】 新刀期において初代南紀重国ほど重要な刀工は他に類を見ません。17世紀初頭に活躍した重国は、相州伝と大和伝の双方を極めましたが、本作は大和伝の特色が色濃く表れた一振りです。柾目のかかった肌合に、直刃、高い棟といった特徴が顕著です。藤代義雄氏の『日本刀工辞典』においても、最高位である「最上作」に列せられています。 格調高い拵と相まって、非常に見応えのある一振りに仕上がっております。愛刀家の皆様、この機会をぜひお見逃しなく。 重量:約1.6 kg 価格:5,500ドル









Nanki / Monju (Yamato-Tegai descent, Kishu Shinto) · 紀伊 · 1596-1630頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位5%
現在4点販売中
南紀重国はその作に「於南紀重国造之」と切り、説明書はその銘文をそのまま履歴として読む。彼は本国大和、手掻派の末葉といわれ、慶長年間に徳川家康に仕えて駿府で作刀し、元和五年(一六一九)に徳川頼宣の紀州和歌山移封に従って移った、と記される。通称を九郎三郎といい、一銘には「紀州明光山文珠九郎三郎重国」[[c:13]]と切るものがあって、この系を発した大和文殊の根に結ぶ。彼を録する説明書はこの出自を一様には均さない。「彼の作風は大別して二様あり」[[c:14]](大別して二様)といい、その二様を作ごとに名指す。すなわち相州上工、就中、郷義弘に私淑したと想われる相州伝の乱れ刃と、「彼の御家芸とも」(彼の御家芸とも)いうべき大和手掻の作風を継承して「包永を髣髴」(包永を髣髴)とさせる直刃である。
二様の第一は、説明書が相州伝の典型かつ出色と呼ぶ作域である。流れた板目に杢、時に大板目を交え、処々肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、かねが冴える。その地に浅いのたれ・小のたれを焼き、互の目・大互の目、時に尖りごころの刃を交え、物打辺上より一段と焼幅を広める。匂は深く、沸は厚く処々に崩れ、総体に金筋・砂流しが頻りにかかり、僅かに飛焼・湯走りを交えて、匂口は明るく冴える。帽子は直ぐに小丸あるいは焼詰めに返り、掃きかける。徳川家に抱えられてこの時期に相伝復興を志した同列の工のうちでも、彼の刃中の働きは最も豊かで、地刃を覆う金筋・砂流しはいずれの工よりも盛んである。そしてまさにその地刃の明るい冴えを、説明書は「殊に地刃が明るく冴える点が彼の本領」[[c:5]](殊に地刃が明るく冴える点が彼の本領)と名指す。ある重要刀剣の脇指では、刃中金筋の渦巻き状になる態を捉え、これを彼の相州伝の作柄によく見受けられる見どころと記す。
そのいずれの作でも、鍛えは一様に流れた板目で、地沸厚く、地景がよく入り、かねが冴える。説明書はこの鍛えを二様の下に通う恒と見る。細かくつんだ小板目ではなく、立って肌目の起つ鍛えで、流れ肌を最も濃く帯びる。これこそ二様を貫いて伝わる大和の血である。直刃側の作はその継承を顕わに示す。直刃調、時に中直刃・広直刃に、物打辺上より小互の目を交え、刃縁ほつれて喰違刃・二重刃・湯走りを見せ、帽子は焼詰めまたは直ぐに掃きかける。柾がかった鍛えと焼詰めの帽子こそ手掻の末葉たる証で、祖の包永に近く、大和の血を引かずに相伝を復興した越前・堀川の工にはほぼ見られない。いずれの作に属しても、説明書が値の据えどころと名指すのは同じく、明るく冴えた地刃と刃中の豊かな働きである。
説明書は二様の外に第三の作域を読み、ここに重国はおのれとなる。相州伝を基盤に大和伝を加味し、その上に彼独特の一作風を樹立した、と記し、その好例を「白眉」(白眉)と呼んで、特に地鉄の良さと地刃の明るく冴える点を挙げる。相州伝の側はまた「江写し」(江写し)とも称せられ、ある作には盛んな出来であって地の出来も冴えて見事と説明書はいう。作はほとんどが在銘で、長銘と細鏨の二字銘「重国」の二様にわたり、二字銘は初代作に稀とされる。後代の南紀数代は一括して極められ、本文が「初代」と明記する作はその旨を付す。互の目・角がかった刃・矢筈風の刃を交えたある脇指の乱れには、説明書は「文珠風の色合い」(文珠風の色合い)を看て取り、「二代以降の刃取りの先駆」[[c:9]](二代以降の刃取りの先駆)を感じさせると読む。彼から下る紀州新刀へと、その線は前へ開く。
説明書はその異なりを、模範の欠を挙げてではなく、彼自身の地に拠って描く。私淑した相州上工に対しては、明るく沸の強い地刃と自在に走る金筋・砂流しが彼独自の盛んで冴えた作域と読まれ、ある初期の短刀を説明書はこの工最高の地鉄とまで称し、刃も明るく働きも豊かという。出自の大和に対しては、流れ肌・柾がかった鍛え・喰違刃・焼詰めの帽子が手掻の血を告げ、それは相州伝の作にすら、鎬幅広く鎬高い造込みと掃きかけた帽子となって彼本来の大和気質を露わす。逆に下を見れば、説明書は彼の相州伝の作、横手を焼き込んで丸く返り地刃明るく冴えるところに「徹の作風に相通ずる」[[c:10]](徹の作風に相通ずる)ものを読み、虎徹がこの種の作域を参酌したであろうと推す。次代の名工へと辿られるこの似通いは、郷と包永が後ろを閉じるように、彼の系を前へ閉じる。
藤代の極めで最上作。その名を負う指定の重みは新刀の工の中で高く、重要文化財一口を戴き、特別重要刀剣六口、その下に重要刀剣四十四口、特別重要刀剣と重要刀剣を併せて凡そ五十口を数え、公の記録ではその作はことごとく在銘、五十九口に無銘はない。作に録された来歴はそのまま彼が仕えた家へ遡る。和歌山の紀州徳川家に伝来した作があり、その下で打った徳川家康・徳川頼宣が刀の歴史に立ち、後の所持には皇室も連なる。元和八年(一六二二)紀の脇指が数口現存し、頼宣の重臣の所持銘を帯びる。一口は紀州藩老蔭山土佐守宗信の注文に応じ、他の一口は「三河以来の頼宣の重臣」[[c:11]](三河以来の頼宣の重臣)都筑藤一の所持銘を持ち、説明書はこれらを重国研究上の貴重な資料と記す。彼の相州伝の作刀は「その多くが磨上がっており」[[c:12]](その多くが磨上がっており)、生ぶ茎のものは稀で、その点でも貴重とされる、と説明書はいう。在銘の重国は手の届かぬ名ではない。時に一口が市に現れ、刀よりは脇指のことが多く、遺るものの多くは古い大名家・愛蔵家の許にあって取引には出ず、現れれば紀州新刀の一つの画期となる。
重國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 大和
現在22点販売中
文珠派は、説示が一様に「本国は大和、手掻派の末葉」[[c:1]]と伝える系統を出自とする。ここに収める作はいずれも南紀重国、すなわち通称九郎三郎を名のり、紀州明光山に住して文珠を号した初代重国の手になるもので、慶長年間に徳川家康に召し抱えられて駿府に作刀し、元和五年、家康の第十子徳川頼宣が紀州和歌山へ移封されるに従って和歌山へ移った経緯が繰り返し記される。銘も「和州手搔住重国於駿府造之」[[c:2]]から「於南紀重国造之」「於紀州和歌山重国作」[[c:3]]へと住地の推移を映し、駿府打と紀州打の双方が確認される。すなわち本派の説示が実際に扱う範囲は、大和手掻の末流を承けて駿府から紀州へと展開した桃山から江戸初期の一工とその作域であり、所伝として手掻包永を遠祖に置く点で一貫している。 作風について説示は、当工に大別して二様があると記す。一つはのたれに互の目を交えた乱れ刃で、相州上工、就中、郷(江)義弘に私淑したと想われるもの、他は御家芸というべき大和手掻の直刃を焼いて包永を髣髴とさせるものである。そしていずれの場合にも、板目が流れて杢を交え肌立ちごころとなる鍛えに、地沸が厚くつき、地景がよく入ってかねが冴える地鉄が共通し、刃中もよく沸づいて金筋・砂流しがかかり、殊に地刃の明るく冴える点を本領とする。相州伝の作は小のたれに小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉入り、沸厚くつき処々沸崩れ、湯走り状の飛焼を見せて放胆に乱れる。大和伝の作は中直刃を基調に喰違刃・二重刃・ほつれを交え、帽子は焼詰めごころに掃きかける。さらに両伝を加味してその上に独自の作域を樹立した一類があり、流れ肌や喰違刃に大和色を残しつつ強い沸と金筋に相州色を示すもので、文珠風の刃取りに連なる色合いとも評される。姿は身幅広く寸延びて先反りのつく慶長新刀の体配を採り、平造の脇指に先反りの目立つ造込みを当工の特徴とする。 伝承の上では、説示は地刃の沸の強さ、地景・金筋・砂流しの働き、明るく冴える地刃を鑑定の眼目に挙げ、なかでも相州伝の狙うところが郷にあることを繰り返し説く。帽子の掃きかけと返りの浅さ、流れた鍛肌など、相州伝の作にも本来の大和気質が看取される旨も指摘される。代表作には頼宣の重臣蔭山土佐守宗信や都筑藤一の所持銘を帯びた注文打、元和八年紀を有する脇指などがあり、来歴を記した銘文ともども重国研究上の資料として重んじられる。来歴の確かなものに紀州徳川家伝来の刀があり、長大な生ぶ茎の遺例は奉納刀の可能性も説かれる。当工の相州伝作は磨上げられた例が多く、生ぶ茎を残すものは稀少として珍重される。大和の祖法に相州伝を融合させ独自の作域を開いた点に、本派を貫く位置づけが認められる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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Q518. 大磨上無銘 刀(南紀重国 鑑定) 長さ:67.3 cm(二尺二寸二分) 反り:0.7 cm 元幅:3.0 cm 元重:0.8 cm 先幅:1.9 cm 先重:0.5 cm 茎長:24.0 cm 拵全長:95.0 cm 【形状】 大磨上無銘。腰反りつき、庵棟、中切先。 【鍛え】 小板目肌つみ、刃寄りに柾目流れる。 【刃文】 直刃調に小互の目交じり、足よく入り、細かな働き盛ん。匂口明るく冴え、小沸よくつく。 【帽子】 刃文そのままに直に走り、中丸へ短く返る。 【状態】 研ぎ上がり。極めて健全で、僅かなヒケを除き欠点なし。赤銅一重木ハバキ(凹みあり)。 【鑑定・附属品】 NPO法人日本刀剣保存技術研究会(NTHK)鑑定書(2006年付) 刀身:「初代 南紀重国」 拵:「黒漆塗鞘打刀拵」 (鑑定書の和訳あり。現在、商品画像に鑑定書が表示されない不具合があるため、確認を希望される方はメールにてご連絡ください。) 【拵】 鞘は黒漆塗で状態良好。鐔は鉄地、銘「正阿弥」。縁頭は赤銅魚子地に金・赤銅・銅の三色で木の葉を配した優品。目貫は金・赤銅。拵全体として保存状態は極めて良好。正絹の刀袋が付属します。 【解説】 新刀期において初代南紀重国ほど重要な刀工は他に類を見ません。17世紀初頭に活躍した重国は、相州伝と大和伝の双方を極めましたが、本作は大和伝の特色が色濃く表れた一振りです。柾目のかかった肌合に、直刃、高い棟といった特徴が顕著です。藤代義雄氏の『日本刀工辞典』においても、最高位である「最上作」に列せられています。 格調高い拵と相まって、非常に見応えのある一振りに仕上がっております。愛刀家の皆様、この機会をぜひお見逃しなく。 重量:約1.6 kg 価格:5,500ドル









Nanki / Monju (Yamato-Tegai descent, Kishu Shinto) · 紀伊 · 1596-1630頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位5%
現在4点販売中
南紀重国はその作に「於南紀重国造之」と切り、説明書はその銘文をそのまま履歴として読む。彼は本国大和、手掻派の末葉といわれ、慶長年間に徳川家康に仕えて駿府で作刀し、元和五年(一六一九)に徳川頼宣の紀州和歌山移封に従って移った、と記される。通称を九郎三郎といい、一銘には「紀州明光山文珠九郎三郎重国」[[c:13]]と切るものがあって、この系を発した大和文殊の根に結ぶ。彼を録する説明書はこの出自を一様には均さない。「彼の作風は大別して二様あり」[[c:14]](大別して二様)といい、その二様を作ごとに名指す。すなわち相州上工、就中、郷義弘に私淑したと想われる相州伝の乱れ刃と、「彼の御家芸とも」(彼の御家芸とも)いうべき大和手掻の作風を継承して「包永を髣髴」(包永を髣髴)とさせる直刃である。
二様の第一は、説明書が相州伝の典型かつ出色と呼ぶ作域である。流れた板目に杢、時に大板目を交え、処々肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、かねが冴える。その地に浅いのたれ・小のたれを焼き、互の目・大互の目、時に尖りごころの刃を交え、物打辺上より一段と焼幅を広める。匂は深く、沸は厚く処々に崩れ、総体に金筋・砂流しが頻りにかかり、僅かに飛焼・湯走りを交えて、匂口は明るく冴える。帽子は直ぐに小丸あるいは焼詰めに返り、掃きかける。徳川家に抱えられてこの時期に相伝復興を志した同列の工のうちでも、彼の刃中の働きは最も豊かで、地刃を覆う金筋・砂流しはいずれの工よりも盛んである。そしてまさにその地刃の明るい冴えを、説明書は「殊に地刃が明るく冴える点が彼の本領」[[c:5]](殊に地刃が明るく冴える点が彼の本領)と名指す。ある重要刀剣の脇指では、刃中金筋の渦巻き状になる態を捉え、これを彼の相州伝の作柄によく見受けられる見どころと記す。
そのいずれの作でも、鍛えは一様に流れた板目で、地沸厚く、地景がよく入り、かねが冴える。説明書はこの鍛えを二様の下に通う恒と見る。細かくつんだ小板目ではなく、立って肌目の起つ鍛えで、流れ肌を最も濃く帯びる。これこそ二様を貫いて伝わる大和の血である。直刃側の作はその継承を顕わに示す。直刃調、時に中直刃・広直刃に、物打辺上より小互の目を交え、刃縁ほつれて喰違刃・二重刃・湯走りを見せ、帽子は焼詰めまたは直ぐに掃きかける。柾がかった鍛えと焼詰めの帽子こそ手掻の末葉たる証で、祖の包永に近く、大和の血を引かずに相伝を復興した越前・堀川の工にはほぼ見られない。いずれの作に属しても、説明書が値の据えどころと名指すのは同じく、明るく冴えた地刃と刃中の豊かな働きである。
説明書は二様の外に第三の作域を読み、ここに重国はおのれとなる。相州伝を基盤に大和伝を加味し、その上に彼独特の一作風を樹立した、と記し、その好例を「白眉」(白眉)と呼んで、特に地鉄の良さと地刃の明るく冴える点を挙げる。相州伝の側はまた「江写し」(江写し)とも称せられ、ある作には盛んな出来であって地の出来も冴えて見事と説明書はいう。作はほとんどが在銘で、長銘と細鏨の二字銘「重国」の二様にわたり、二字銘は初代作に稀とされる。後代の南紀数代は一括して極められ、本文が「初代」と明記する作はその旨を付す。互の目・角がかった刃・矢筈風の刃を交えたある脇指の乱れには、説明書は「文珠風の色合い」(文珠風の色合い)を看て取り、「二代以降の刃取りの先駆」[[c:9]](二代以降の刃取りの先駆)を感じさせると読む。彼から下る紀州新刀へと、その線は前へ開く。
説明書はその異なりを、模範の欠を挙げてではなく、彼自身の地に拠って描く。私淑した相州上工に対しては、明るく沸の強い地刃と自在に走る金筋・砂流しが彼独自の盛んで冴えた作域と読まれ、ある初期の短刀を説明書はこの工最高の地鉄とまで称し、刃も明るく働きも豊かという。出自の大和に対しては、流れ肌・柾がかった鍛え・喰違刃・焼詰めの帽子が手掻の血を告げ、それは相州伝の作にすら、鎬幅広く鎬高い造込みと掃きかけた帽子となって彼本来の大和気質を露わす。逆に下を見れば、説明書は彼の相州伝の作、横手を焼き込んで丸く返り地刃明るく冴えるところに「徹の作風に相通ずる」[[c:10]](徹の作風に相通ずる)ものを読み、虎徹がこの種の作域を参酌したであろうと推す。次代の名工へと辿られるこの似通いは、郷と包永が後ろを閉じるように、彼の系を前へ閉じる。
藤代の極めで最上作。その名を負う指定の重みは新刀の工の中で高く、重要文化財一口を戴き、特別重要刀剣六口、その下に重要刀剣四十四口、特別重要刀剣と重要刀剣を併せて凡そ五十口を数え、公の記録ではその作はことごとく在銘、五十九口に無銘はない。作に録された来歴はそのまま彼が仕えた家へ遡る。和歌山の紀州徳川家に伝来した作があり、その下で打った徳川家康・徳川頼宣が刀の歴史に立ち、後の所持には皇室も連なる。元和八年(一六二二)紀の脇指が数口現存し、頼宣の重臣の所持銘を帯びる。一口は紀州藩老蔭山土佐守宗信の注文に応じ、他の一口は「三河以来の頼宣の重臣」[[c:11]](三河以来の頼宣の重臣)都筑藤一の所持銘を持ち、説明書はこれらを重国研究上の貴重な資料と記す。彼の相州伝の作刀は「その多くが磨上がっており」[[c:12]](その多くが磨上がっており)、生ぶ茎のものは稀で、その点でも貴重とされる、と説明書はいう。在銘の重国は手の届かぬ名ではない。時に一口が市に現れ、刀よりは脇指のことが多く、遺るものの多くは古い大名家・愛蔵家の許にあって取引には出ず、現れれば紀州新刀の一つの画期となる。
重國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 大和
現在22点販売中
文珠派は、説示が一様に「本国は大和、手掻派の末葉」[[c:1]]と伝える系統を出自とする。ここに収める作はいずれも南紀重国、すなわち通称九郎三郎を名のり、紀州明光山に住して文珠を号した初代重国の手になるもので、慶長年間に徳川家康に召し抱えられて駿府に作刀し、元和五年、家康の第十子徳川頼宣が紀州和歌山へ移封されるに従って和歌山へ移った経緯が繰り返し記される。銘も「和州手搔住重国於駿府造之」[[c:2]]から「於南紀重国造之」「於紀州和歌山重国作」[[c:3]]へと住地の推移を映し、駿府打と紀州打の双方が確認される。すなわち本派の説示が実際に扱う範囲は、大和手掻の末流を承けて駿府から紀州へと展開した桃山から江戸初期の一工とその作域であり、所伝として手掻包永を遠祖に置く点で一貫している。 作風について説示は、当工に大別して二様があると記す。一つはのたれに互の目を交えた乱れ刃で、相州上工、就中、郷(江)義弘に私淑したと想われるもの、他は御家芸というべき大和手掻の直刃を焼いて包永を髣髴とさせるものである。そしていずれの場合にも、板目が流れて杢を交え肌立ちごころとなる鍛えに、地沸が厚くつき、地景がよく入ってかねが冴える地鉄が共通し、刃中もよく沸づいて金筋・砂流しがかかり、殊に地刃の明るく冴える点を本領とする。相州伝の作は小のたれに小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉入り、沸厚くつき処々沸崩れ、湯走り状の飛焼を見せて放胆に乱れる。大和伝の作は中直刃を基調に喰違刃・二重刃・ほつれを交え、帽子は焼詰めごころに掃きかける。さらに両伝を加味してその上に独自の作域を樹立した一類があり、流れ肌や喰違刃に大和色を残しつつ強い沸と金筋に相州色を示すもので、文珠風の刃取りに連なる色合いとも評される。姿は身幅広く寸延びて先反りのつく慶長新刀の体配を採り、平造の脇指に先反りの目立つ造込みを当工の特徴とする。 伝承の上では、説示は地刃の沸の強さ、地景・金筋・砂流しの働き、明るく冴える地刃を鑑定の眼目に挙げ、なかでも相州伝の狙うところが郷にあることを繰り返し説く。帽子の掃きかけと返りの浅さ、流れた鍛肌など、相州伝の作にも本来の大和気質が看取される旨も指摘される。代表作には頼宣の重臣蔭山土佐守宗信や都筑藤一の所持銘を帯びた注文打、元和八年紀を有する脇指などがあり、来歴を記した銘文ともども重国研究上の資料として重んじられる。来歴の確かなものに紀州徳川家伝来の刀があり、長大な生ぶ茎の遺例は奉納刀の可能性も説かれる。当工の相州伝作は磨上げられた例が多く、生ぶ茎を残すものは稀少として珍重される。大和の祖法に相州伝を融合させ独自の作域を開いた点に、本派を貫く位置づけが認められる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
3-day return window from receipt.