1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
Stock No:WA-060125Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon ToukenCountry(Kuni)/Period(Jidai): Hitachi(Ibaraki), Late Edo period 1819Blade length(Cutting edge): 39 cmCurve(SORI):0.6 cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.94 cmThickness at the Moto-Kasane: 0.60 cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.55 cmThickness at the Saki-Kasane: 0.50 cmHabaki: One parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered, Kesho file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Length of Koshirae : about 67cmShape(Taihai): Unokubi-zukuri, Iorimune, Chu-kissaki,Engraving: Koshi-hi on each sideJigane(Hada): Ko-itameTemper patterns(Hamon): Gunome-midareTemper patterns in the point(Bohshi): Sugu then komaru round tipRegistration Card: Ibaraki 1959【Additional Information】市毛徳鄰は幕末の水戸鍛冶随一の名工であります。安永六年(1777)生まれ、はじめ水戸藩櫓方細工人として召し抱えられ、摂津国刀工 尾崎助隆に師事し、後年近江介を受領。天保六年(1835)に病没しました。烈公の名で知られる同藩主 徳川斉昭にあっては、文武両道を掲げ藩政改革の傍ら、学問の習得にも意欲的で、刀剣製作に強い関心を示しました。徳鄰や直江助政、直江助共らは、御相手鍛冶を務め、斉昭公は独自の「八雲鍛」という鍛錬法を創始するほどに至ります。徳鄰の刻銘は「市毛近江介藤原朝臣徳鄰」、「常陸国市毛近江守藤原徳鄰」、「水戸市毛徳鄰作」などと銘を切ります。本作体配は、刃長が一尺二寸九分弱、身幅重ね尋常、反りやや浅め、鵜首造姿で鋭利な刀姿の一刀です。表裏には、腰樋の彫刻を施します。地鉄は小板目肌、精良な肌合いで、地沸微塵に厚く付いて強靭な鍛となります。刃文は互の目乱れ、刃中には足長く入ります。沸匂深く、柔らかに爛々とよく冴えます。帽子は直ぐとなり先小丸に返ります。茎は生ぶ、化粧筋違鑢で、刀工銘と年紀を刻します。拵は、精緻な細工で製作された赤銅金具を配した研出鮫鞘脇差拵が附きます。本刀は、直江助政と並び、出物をまず見る事のない市毛徳鄰の逸品です。水戸刀工中、比類なき見事な技量を示した名品としてご紹介いたします。白鞘、金着一重はばき、研出鮫鞘脇差拵、特別保存刀剣鑑定書。
Certificate reading — 銘 水府住市毛徳鄰 文政二年八月日
取扱店 銀座誠友堂



















Mito (Hitachi), shinshinto · 常陸 · 1812-1830頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位39%
現在1点販売中
市毛徳鄰は、その刀に「水府市毛源左衛門徳鄰」[[c:2]]と国名を冠し俗名を入れた長銘を切り、その経歴も銘の通りに説明に明記される。安永六年(一七七七)の生まれで、水戸藩士であり、はじめ水戸藩工久米長徳に師事し、のち大坂に出て尾崎助隆の門に学んだ。文化六年、三十三歳の時に水戸藩の抱鍛冶となり、天保元年には近江介を受領し、天保六年(一八三五)に歿している。説明はその作風に、師風を継いだ濤瀾乱れと、同じ大坂の真改風の直刃仕立のものとの二様があり、ともに匂口が明るく冴えて上手であると記す。
濤瀾は、説明が「彼の最も得意とした濤瀾風」[[c:1]]とする作域である。大互の目乱れが整然と起伏するもので、小板目のよくつんで冴えた地鉄の上に焼き、しばしば区上に直ぐの焼出しを設けてその上を濤瀾の大模様に開く。足が長くよく入り、匂深く、小沸が厚くつき、砂流しがかかり、匂口が明るく冴える。説明はこの作域での成功を、その整いによって判じる。最も優れた脇指について、乱れの形がくずれることなく整然と焼かれ、沸の粒が均一でよく揃ってむらなくつくと評し、ある刀については「濤瀾乱れの作柄は、幕末期の刀工が挙って試みているが、中でも徳鄰は抜群」[[c:3]]と記す。
二様の地鉄はいずれも同じ精良な鍛えである。小板目がよくつみ、時に杢・流れ肌を交え、地沸が細かに、時に微塵に厚くつき、地景が細かによく入って、かねが冴える。最高作ではこの鍛えを一段と優れたものとする。刃文はいずれの作域でも同じ見どころで読まれ、匂深く、小沸が厚くつき、細かに金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴える点が繰り返し挙げられる。帽子は一口を除いて直ぐに小丸に結び、時にやや深く返って先を僅かに掃きかける。姿は多くが鎬造の刀・脇指で、身幅やや広め、重ね厚く、踏張りごころがあり、中鋒が延びる。その例外が、重ね厚く内反りの平造短刀である。
第二の作域は真改風の直刃である。中直刃・広直刃、または直刃調に浅くのたれごころをおび、丁子・互の目・長い足が入る。説明はこれを「同作としては比較的珍らしい真改風の作域」[[c:4]]とし、それゆえに賞して、これらの作では沸が一層厚く、その粒がより均一で、匂口が明るく冴える点を特筆する。本間による御物台帳に所載の年紀作二口もこの作域に属する。「水戸八幡住」と切る文化十一年紀の脇指は、小板目よくつんだ地に浅く湾れ調の直刃を焼き、匂深く匂口冴え、「水府住」とのみ切る文政四年紀の刀は広直刃調に足よく入り、帽子は直ぐに大丸となって、記録中唯一の例外をなす。台帳は両刀とも出来がよく、脇指は「特に優れている」とする。銘もまた年代の手掛りとなる。文化頃までは「水戸住」、文政頃は「水府住」ときるため、説明は無年紀の一刀を文政に入ってからの作とし、文政二年紀の銘振りに近似することから、或は文政二年とも推す。
その基準となる文政二年紀の作が現存する。文政二年二月の年紀を切る短刀で、小板目がよくつんで地沸が細かにつき、直ぐに短く焼き出して大互の目乱れを焼き、足太く入り、地刃とも明るく冴え、説明は同作中出色の一口とする。その銘は常の作と異なり、指表に国名も俗名もない「市毛徳鄰作」の五字銘を切り、裏に年紀を切る。ある脇指については「この作は、彼の典型といえるもの」[[c:5]]で出来映えも傑出するとし、ある刀には「彼の本領が遺憾無く発揮されている」[[c:6]]と記す。彼の評価はこの整いに基づく。波頭はその形を保ち、沸は均一に揃い、精良な直刃は、その技術が一手のみのものではなかったことを示す。
茨城県知事から宮中に献上された御物台帳所載の二口を除けば、徳鄰の記録は悉く重要刀剣の域にある。同台帳は彼を「水戸新々刀工中の白眉」[[c:7]]と評する。九口が重要刀剣に指定され、いずれも在銘で生ぶ茎である。うち八口は国名や俗名を入れることの多い長銘で、残る一口が五字銘の文政二年紀短刀である。説明はそのうち数口を同作中の優品・代表作とする。国宝・重要文化財・特別重要刀剣はなく、美術館・大名家の所蔵も記録されていない。藤代の評価は上作、『刀工大鑑』の評価は三百八十点で、幕末水戸の有数の上手の位置にある。一個の収集家にとって、その作は鎌倉の名跡のように手の届かぬものではないが、世に現れることは稀である。健全な在銘・年紀の一口は、彼が我が物とした濤瀾風であれ、より珍しい真改風の直刃であれ、待つに値し、その優品は説明の言う「沸の粒が均一でよく揃ってむらなくつき」[[c:8]]を示している。
徳鄰の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 常陸
現在5点販売中
水戸鍛冶は、常陸国水戸を本拠とした新々刀期の一群であり、ここに収める説示は市毛徳鄰と勝村徳勝の二工を主に扱っている。水戸藩は徳川御三家の一として尊王の学風を育み、幕末に至るまで気骨ある気風を保った地であって、その藩工として両者が現れている。市毛徳鄰は安永六年の生まれ、俗名を源左衛門といい、はじめ水戸藩工の久米長徳(長矩)に学び、のち大坂に出て尾崎助隆の門に入った。文化六年三十三歳の時に藩の抱え鍛冶となり、天保元年に近江介を受領、天保六年に歿している。銘も文化頃の「水戸住市毛徳鄰」から文政頃の「水府住市毛徳鄰」へと移り、活動の時期を映している。勝村徳勝は文化六年に水戸に生まれ、通称を彦六といい、はじめ水戸藩工の関内徳宗に鍛刀を学び、嘉永五年に藩命をもって弟子の初代正勝を伴い江戸へ上って細川正義・石堂運寿是一の門に学んだと伝え、文久年間に江戸小石川の水戸藩邸に移って多くの作刀を遺し、明治五年に六十四歳で歿したという。志沢の鉄山に砂鉄を採り自ら鍛えた鉄をもって刀を製した由来を銘に刻む作も伝わり、当時の藩を挙げた製鉄への志を窺わせる。なお拵の一腰は水戸徳川家抱え工玉川美久の金具に第十代藩主徳川慶篤(順公)の作刀を納めたもので、別系の手になる。 両工は地を同じくしながら作風を異にする。市毛徳鄰は小板目肌がよくつんで地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って鉄が冴える鍛えを基とし、刃文には師助隆の風を継いだ濤瀾風の大互の目乱れを最も得意として足長く入れ、匂深く沸厚くつき、匂口が明るく冴える。これに加えて真改風の直刃仕立ての作があり、説示はこの作域を比較的珍しいものとしつつ、沸の粒が均一でむらなく整う点を称している。帽子は直ぐに小丸へ返るものが多い。一方の勝村徳勝は、重ねが厚く長大で武張った豪壮な造込みを示し、柾目鍛えに地沸を微塵につけ、中直刃調に浅くのたれて小互の目を交え、刃縁がほつれ、砂流し頻りにかかり、金筋が入り、帽子は直ぐに小丸へ返ってさかんに掃きかける。古作尻懸を想わせる大和気質が窺われる点が、その見分けの要となる。 鑑定にあたっては、まず徳鄰の濤瀾乱れと直刃の二様、徳勝の柾目に直刃調・掃きかける帽子という地の作りを軸に据えるとよい。徳鄰は文化頃の「水戸住」、文政頃の「水府住」と銘字が移ることが制作年代の手掛りとなる。徳勝は門弟正勝の代銘になる作も認められ、自ら「勝利」と号した快心の刀があって、安政から慶応に至る年紀を伴う作が遺る。徳鄰には脇指・短刀の優品が、徳勝には水戸刀特有の幅広・長寸の豪壮な刀が伝来し、いずれも幕末水戸の作刀を語るうえで欠かせない位置を占めている。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
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