市毛徳鄰は、その刀に「水府市毛源左衛門徳鄰」と国名を冠した俗名入りの長銘を切り、その経歴も銘の通りに諸書に明記される。安永六年(一七七七)の生まれで、水戸藩士であり、はじめ水戸藩工久米長徳に師事し、のち大坂に出て尾崎助隆の門に学んで大成した。文化六年、三十三歳の時に水戸藩の抱え鍛冶となり、天保元年には近江介を受領して後年の作はこの受領銘を帯び、天保六年(一八三五)に歿している。助隆を介してその系は大坂の津田助広の系統に連なり、二代助広が創始した濤瀾刃を、徳鄰は幕末の水戸に伝えた。この濤瀾風こそ、彼が最も好み最も得意とした作域であると諸書は記す。
彼の特徴をなす手は濤瀾の刃で、大互の目乱れが沖の波のように整然と起伏する。これを小板目のよくつんで冴えた地鉄の上に焼き、しばしば区上に直ぐの焼出しを設けてその上を濤瀾の大模様に開き、足が長く入り、匂深く、小沸が刃中に厚くつき、砂流しがかかり、匂口が明るく冴える。諸書はこの作域における成功を、華やかさによってではなく制御によって判じる。その傑出した脇指について、乱れの形がくずれることなく整然と焼かれ、沸の粒が均一でよく揃ってむらなくつくと評し、濤瀾を試みた幕末刀工の中での彼の位置を、「濤瀾乱れの作柄は、幕末期の刀工が挙って試みているが、中でも徳鄰は抜群」と記す。この作域の現存作は比較的少なく、在銘・年紀の遺例が重んじられる所以でもある。
二様の地鉄はいずれも精良で、小板目がよくつみ、杢・流れ肌を交え、地沸が細かに、時に微塵に厚くつき、地景が細かによく入って、かね冴える。最高作ではこの鍛えを一段と優れたものとし、微塵につく地沸と細かに入る地景の精良さを特筆する。刃文はいずれの作域でも同じ見どころで読まれ、匂深く、小沸が厚くつき、細かに金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴える点が繰り返し挙げられる。帽子は記録上の全作を通じての常態で、直ぐに小丸に結び、時にやや深く返って先を僅かに掃きかける。姿は鎬造の刀・脇指で、身幅やや広め、重ね厚く、踏張りごころがあり、中鋒が延びる。
濤瀾の傍らに、諸書は第二・第三の作域を挙げ、彼は倣う手本によって作域を分かつ一工として捉えられる。第一は真改風の直刃仕立で、中直刃・広直刃、または直刃調に浅くのたれごころをおび、丁子・互の目・長い足が入る。諸書はこれを「同作としては比較的珍らしい真改風の作域」とし、その分これを賞して、これらの作では沸が一層厚くつきその粒が均一でよく揃い、匂口が明るく冴える点に特筆すべきものがあるとする。第三は濱部風の互の目乱れで、いずれも上手とされる。銘もまた同じ用意を示し、記録上の全作が生ぶ茎に長銘を切り、諸書はその銘文自体を年代の手掛りとして、文化頃は「水戸住」、文政頃は「水府住」と変ることから、無銘年紀の一刀を銘振りの近似によって文政二年頃と推す。
幕末の濤瀾刃の刀工が犇めく中で徳鄰を分かつのは、作域の広さではなく、その手の澄んだ整然さである。比較的現存の少ないとされる同じ脇指を、諸書は彼の典型ともし、現存する作の中でも「この作は、彼の典型といえるもの」で出来映えも傑出していると記す。彼の評価はこの制御に基づくのであって、作の多寡や借り物の類似によるのではない。多くの同時代工が濤瀾に手を伸ばしてこれを乱したのに対し、彼の波頭はその形を保ち、沸は均一に揃い、その一刀には本領が遺憾無く発揮されていると諸書は見る。江戸後期の水戸派にあって彼は上手の一人に位置し、濤瀾刃は助隆系より受けた彼の代名詞であり、精良な直刃は、その技術が一手のみのものではなかったことの証である。
徳鄰の記録は悉く重要刀剣の域にある。八口が重要刀剣に指定され、いずれも在銘・生ぶで、諸書はそのうち数口を最高作・代表作とし、地刃ともに見事とする。国宝も重要文化財もなく、美術館・大名家の所蔵も名としては記録されておらず、その存在は著名な所蔵者の連なりによってではなく、これら在銘の重要刀剣の刀・脇指によって伝わる。藤代の評価は上作、刀剣美術の評価は中上位にあり、一国を代表する名工というよりは有数の幕末の名手の位置にある。一個の収集家にとって、その作は鎌倉の名跡のように手の届かぬものではないが、世に現れることは稀で、健全な在銘・年紀の一口は、彼が我が物とした濤瀾風であれ、より珍しい真改風の直刃であれ、待つに値する。現存は比較的少なく、各々が俗名入りの全長銘を帯び、その優品は、諸書自らの尺度において「沸の粒が均一でよく揃ってむらなくつき」、彼の手の最も確かな証を示している。