説明

日本刀 兼房 銘 特別保存刀剣鑑定書付 短刀 【解説】 本作は「兼房」と銘が切られた一振りです。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)の鑑定により、新刀期(1596年〜1780年)に打たれたものと極められています。 兼房派の系譜は室町時代中期、康正年間(1455年頃)にまで遡ります。初代兼房は、美濃国関の有力工である兼重の子と伝えられ、関鍛冶の惣領職を継承しました。以来、兼房家は関鍛冶の惣領家として重きをなしています。永享年間(1429年〜1441年)頃に活躍した初代兼房は、特に「兼房乱れ」と呼ばれる独特の丁子乱れの刃文を創始したことで知られています。 美濃国、とりわけ関は日本刀制作における最重要拠点の一つでした。この地の鍛冶は「美濃伝」を確立し、尖り刃を交えた互の目乱れや、白く霧がかったような映りが現れる地鉄を特徴としています。この伝統は鎌倉時代末期(1280年〜1330年頃)の大和伝に端を発し、室町時代に全盛を迎え、江戸時代まで連綿と受け継がれました。 戦国時代、武器の需要増大に伴い美濃伝は大いに繁栄しました。美濃国は東国と京を結ぶ要衝に位置し、武将たちが刀剣を注文するのに極めて至便な地であったためです。織田信長、徳川家康、明智光秀といった名だたる名将たちが近隣で活躍したことも、その需要を後押ししました。美濃の刀は実用性と切れ味に優れ、武士の間で絶大な信頼を得ていました。 新刀期においても、兼房の名は複数の系統によって継承されました。若狭守氏房(長男)の門人となった兼房、二代石見守国房より名を譲り受けた清十郎兼房(兼慶)、そして助房(四男)の系統など、多岐にわたる門流によってその名は守り抜かれ、現代に至るまでその伝統を伝えています。 【短刀とは】 一般に刃渡り30cm(1尺)以下のものを短刀と呼びます。鍔を付けない「合口」形式も多く、携帯性に優れ、接近戦において重宝されました。鎌倉・室町時代には、長物(槍や太刀)を用いる騎馬武者の補助兵装として用いられ、鎧の隙間を突く近接戦闘で威力を発揮しました。 また、持ち方によって「懐刀(ふところがたな)」や「腰刀(こしがたな)」とも呼ばれます。古来、短刀は邪気を払う守り刀としての信仰もあり、日本の伝統的な婚礼において、花嫁の身を守るために実家から贈られる風習も残されています。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「特別保存刀剣」に認定されています。これは真作であることはもちろん、保存状態が極めて良好で、かつ美術的価値が高い名品であることを証明するものです。 【刀身】 長さ(Nagasa):30.0 cm 反り(Sori):0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(Jihada):鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。和釘と同様、黒錆を意図的に残すことで赤錆の腐食を防いでいます。

Antique Japanese Sword Tanto Signed by Kanefusa NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Tanto Signed by Kanefusa NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

短刀

$6,077

世界81社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ

仕様

長さ

30 cm

流派について

Seki School関派

美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。

刀剣商

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