出ました出ました有名な最上大業物の作者多々良長幸の師匠として有名な河内守源康永の貴重な脇差が出ました。河内守源康永は紀州石堂の祖と言われる橘康廣の弟で後に大坂に移住します。江戸時代延宝(1673年)(353年前)頃の大坂の井上真改や津田越前守助廣と同じ時代に活躍した大阪石堂の名匠です。本脇差は元重ね厚く元身幅と先身幅の差の有る反りの少ない江戸の虎徹と同じ脇差姿を現し、地金は小板目肌に鍛え力強い地金を現し、刃紋は匂い出来に小沸の付いた焼きの高い互の目丁子刃を焼き素晴らしく覇気有る刃を焼いています。拵えも山形庄内金工の赤銅地グリ彫りの縁頭を付けた拵えが本脇差に一層華を添えています。この度古い山形庄内藩の高級武士の家代々大切にしてきた脇差ですが自分達も年を取りましたので大切にして頂ける方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に経年変化の薄錆も有りますので自分でお手入れをするのがお好きな方に3分の1の特別の格安価格にてご提供いたします多々良長幸の師匠の大坂新刀の名工河内守源康永の脇差を是非お楽しみください。





























新刀 · 摂津 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
康永の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 摂津
現在2点販売中
大坂石堂は、紀州石堂派の鍛冶のうち、のちに大坂へと移り住んだ一群を指す呼称である。説示によれば、河内守康永は八左衛門と称し、紀州石堂派の備中守康広の門に学んだのち、紀州から大坂に移って大坂石堂派の一人となり、河内守を受領している。その門人である多々良長幸は本国を紀州といい、通称を四郎兵衛と称し、紀州より大坂に移住した康永のもとで学んで師に優る技量を備えたと記される。また花房備前守祐国とその甥祐春も、紀州石堂派の出身でのちに大坂へ移った鍛冶群のうちの工として説示に挙げられる。これらの工は、康広等を中心とした「康」の字を通字とする一群[[c:1]]が紀州時代以来得意とした丁子乱れを大坂の地に伝え、鎌倉時代の備前一文字、ならびに末備前の作風を復興することを志した。 作風について、説示は長幸に二様があると繰り返し記す。その一つは大丁子に小丁子・尖り刃が交じり、足・葉がよく入った華やかな作柄で、石堂派本来の御家芸ともいうべき一文字を狙ったものである。地鉄は小板目肌がつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って乱れ映りが立ち、刃文は丁子乱れに重花丁子風の刃をも交えて総じて焼高く、匂口は締まりごころに明るく冴える。他の一様は、腰の開いた互の目を主調に複式風の刃を交えた作域で、末備前に範をとったもの、就中、与三左衛門尉祐定あたりを狙ったものとされ、姿や茎までも末備前の体配を忠実に写している。一方、師の康永は映りの立った鍛えに丁子乱れを得意として焼き、直ぐに焼出す態に同派・同工の見どころが窺われると説示はいう。祐国・祐春には石堂風の丁子乱れがあまり経眼されず、むしろ沸づいた互の目を主体とした乱れや濤欄風の大互の目乱れ、また直刃もまま見られ、大坂石堂派の中で特徴ある作風を示すと記される。乱れ込んで先が尖り深く返る帽子、鎬地の柾がかる肌、焼出しの存する点などが、見分けにあたっての要点として挙げられている。 鑑定にあたっては、巧みな乱れ映りと華麗な丁子乱れゆえに時代を古く見あやまりやすいことが説示に注意されており、鎬地の柾や帽子の態、刃が小模様となる点を見落としてはならないとされる。伝来の面では、長幸の作に明治の軍人で愛刀家でもあった谷干城旧蔵の一口が複数知られ、また「以千草鉄鍛之」「以南蛮鉄鍛之」の添銘を伴う作が見られて[[c:2]]、当時大坂の鉄問屋を介した良質の鉄の入手や鉄流通の一端を窺わせる資料として記されている。長幸は石堂派伝統の丁子刃を焼き、よく備前伝を学んで新刀備前伝中の第一人者と評され、堂々たる体配に壮麗な丁子乱れを焼き上げた作をもって、大坂石堂を代表する工として位置づけられている。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
お客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
出ました出ました有名な最上大業物の作者多々良長幸の師匠として有名な河内守源康永の貴重な脇差が出ました。河内守源康永は紀州石堂の祖と言われる橘康廣の弟で後に大坂に移住します。江戸時代延宝(1673年)(353年前)頃の大坂の井上真改や津田越前守助廣と同じ時代に活躍した大阪石堂の名匠です。本脇差は元重ね厚く元身幅と先身幅の差の有る反りの少ない江戸の虎徹と同じ脇差姿を現し、地金は小板目肌に鍛え力強い地金を現し、刃紋は匂い出来に小沸の付いた焼きの高い互の目丁子刃を焼き素晴らしく覇気有る刃を焼いています。拵えも山形庄内金工の赤銅地グリ彫りの縁頭を付けた拵えが本脇差に一層華を添えています。この度古い山形庄内藩の高級武士の家代々大切にしてきた脇差ですが自分達も年を取りましたので大切にして頂ける方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に経年変化の薄錆も有りますので自分でお手入れをするのがお好きな方に3分の1の特別の格安価格にてご提供いたします多々良長幸の師匠の大坂新刀の名工河内守源康永の脇差を是非お楽しみください。





























新刀 · 摂津 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
康永の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 摂津
現在2点販売中
大坂石堂は、紀州石堂派の鍛冶のうち、のちに大坂へと移り住んだ一群を指す呼称である。説示によれば、河内守康永は八左衛門と称し、紀州石堂派の備中守康広の門に学んだのち、紀州から大坂に移って大坂石堂派の一人となり、河内守を受領している。その門人である多々良長幸は本国を紀州といい、通称を四郎兵衛と称し、紀州より大坂に移住した康永のもとで学んで師に優る技量を備えたと記される。また花房備前守祐国とその甥祐春も、紀州石堂派の出身でのちに大坂へ移った鍛冶群のうちの工として説示に挙げられる。これらの工は、康広等を中心とした「康」の字を通字とする一群[[c:1]]が紀州時代以来得意とした丁子乱れを大坂の地に伝え、鎌倉時代の備前一文字、ならびに末備前の作風を復興することを志した。 作風について、説示は長幸に二様があると繰り返し記す。その一つは大丁子に小丁子・尖り刃が交じり、足・葉がよく入った華やかな作柄で、石堂派本来の御家芸ともいうべき一文字を狙ったものである。地鉄は小板目肌がつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って乱れ映りが立ち、刃文は丁子乱れに重花丁子風の刃をも交えて総じて焼高く、匂口は締まりごころに明るく冴える。他の一様は、腰の開いた互の目を主調に複式風の刃を交えた作域で、末備前に範をとったもの、就中、与三左衛門尉祐定あたりを狙ったものとされ、姿や茎までも末備前の体配を忠実に写している。一方、師の康永は映りの立った鍛えに丁子乱れを得意として焼き、直ぐに焼出す態に同派・同工の見どころが窺われると説示はいう。祐国・祐春には石堂風の丁子乱れがあまり経眼されず、むしろ沸づいた互の目を主体とした乱れや濤欄風の大互の目乱れ、また直刃もまま見られ、大坂石堂派の中で特徴ある作風を示すと記される。乱れ込んで先が尖り深く返る帽子、鎬地の柾がかる肌、焼出しの存する点などが、見分けにあたっての要点として挙げられている。 鑑定にあたっては、巧みな乱れ映りと華麗な丁子乱れゆえに時代を古く見あやまりやすいことが説示に注意されており、鎬地の柾や帽子の態、刃が小模様となる点を見落としてはならないとされる。伝来の面では、長幸の作に明治の軍人で愛刀家でもあった谷干城旧蔵の一口が複数知られ、また「以千草鉄鍛之」「以南蛮鉄鍛之」の添銘を伴う作が見られて[[c:2]]、当時大坂の鉄問屋を介した良質の鉄の入手や鉄流通の一端を窺わせる資料として記されている。長幸は石堂派伝統の丁子刃を焼き、よく備前伝を学んで新刀備前伝中の第一人者と評され、堂々たる体配に壮麗な丁子乱れを焼き上げた作をもって、大坂石堂を代表する工として位置づけられている。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
お客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。