康永 / 長幸 刀 (S05 30) 【値下げ品】 売約済 銘:摂州住康永 / 長幸(銘摩滅甚だしい) 形状:鎬造、反り浅く、中切先。 茎:僅かに磨上げ、区送り。 刃渡り:二尺五寸一分一厘(76.1 cm) 元幅:2.69 cm 先幅:1.97 cm 重ね:7.1 mm 【解説】 刃文は沸出来の広調子な丁子乱れに互の目が交じり、足深く入る。 肌は緻密な小板目肌よく詰み、地沸つき、映り立つ。 研ぎの状態は良好で、銀箔周の元白鞘に収められています。 「長幸」の銘に関しては摩滅が激しく、判読には慎重を要します。 体配から推測するに、本作は17世紀後半、寛文年間(1661-1673年)頃の製作と思われます。









新刀 · 摂津 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
康永の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 摂津
現在2点販売中
大坂石堂は、紀州石堂派の鍛冶のうち、のちに大坂へと移り住んだ一群を指す呼称である。説示によれば、河内守康永は八左衛門と称し、紀州石堂派の備中守康広の門に学んだのち、紀州から大坂に移って大坂石堂派の一人となり、河内守を受領している。その門人である多々良長幸は本国を紀州といい、通称を四郎兵衛と称し、紀州より大坂に移住した康永のもとで学んで師に優る技量を備えたと記される。また花房備前守祐国とその甥祐春も、紀州石堂派の出身でのちに大坂へ移った鍛冶群のうちの工として説示に挙げられる。これらの工は、康広等を中心とした「康」の字を通字とする一群[[c:1]]が紀州時代以来得意とした丁子乱れを大坂の地に伝え、鎌倉時代の備前一文字、ならびに末備前の作風を復興することを志した。 作風について、説示は長幸に二様があると繰り返し記す。その一つは大丁子に小丁子・尖り刃が交じり、足・葉がよく入った華やかな作柄で、石堂派本来の御家芸ともいうべき一文字を狙ったものである。地鉄は小板目肌がつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って乱れ映りが立ち、刃文は丁子乱れに重花丁子風の刃をも交えて総じて焼高く、匂口は締まりごころに明るく冴える。他の一様は、腰の開いた互の目を主調に複式風の刃を交えた作域で、末備前に範をとったもの、就中、与三左衛門尉祐定あたりを狙ったものとされ、姿や茎までも末備前の体配を忠実に写している。一方、師の康永は映りの立った鍛えに丁子乱れを得意として焼き、直ぐに焼出す態に同派・同工の見どころが窺われると説示はいう。祐国・祐春には石堂風の丁子乱れがあまり経眼されず、むしろ沸づいた互の目を主体とした乱れや濤欄風の大互の目乱れ、また直刃もまま見られ、大坂石堂派の中で特徴ある作風を示すと記される。乱れ込んで先が尖り深く返る帽子、鎬地の柾がかる肌、焼出しの存する点などが、見分けにあたっての要点として挙げられている。 鑑定にあたっては、巧みな乱れ映りと華麗な丁子乱れゆえに時代を古く見あやまりやすいことが説示に注意されており、鎬地の柾や帽子の態、刃が小模様となる点を見落としてはならないとされる。伝来の面では、長幸の作に明治の軍人で愛刀家でもあった谷干城旧蔵の一口が複数知られ、また「以千草鉄鍛之」「以南蛮鉄鍛之」の添銘を伴う作が見られて[[c:2]]、当時大坂の鉄問屋を介した良質の鉄の入手や鉄流通の一端を窺わせる資料として記されている。長幸は石堂派伝統の丁子刃を焼き、よく備前伝を学んで新刀備前伝中の第一人者と評され、堂々たる体配に壮麗な丁子乱れを焼き上げた作をもって、大坂石堂を代表する工として位置づけられている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
Three day, no penalty, inspection on every item. Returns must be in the same condition as shipped. Actual costs will be charged on returned items. No restocking fee. If you did not like the item is a good enough reason for return.
康永 / 長幸 刀 (S05 30) 【値下げ品】 売約済 銘:摂州住康永 / 長幸(銘摩滅甚だしい) 形状:鎬造、反り浅く、中切先。 茎:僅かに磨上げ、区送り。 刃渡り:二尺五寸一分一厘(76.1 cm) 元幅:2.69 cm 先幅:1.97 cm 重ね:7.1 mm 【解説】 刃文は沸出来の広調子な丁子乱れに互の目が交じり、足深く入る。 肌は緻密な小板目肌よく詰み、地沸つき、映り立つ。 研ぎの状態は良好で、銀箔周の元白鞘に収められています。 「長幸」の銘に関しては摩滅が激しく、判読には慎重を要します。 体配から推測するに、本作は17世紀後半、寛文年間(1661-1673年)頃の製作と思われます。









新刀 · 摂津 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
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康永の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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大坂石堂は、紀州石堂派の鍛冶のうち、のちに大坂へと移り住んだ一群を指す呼称である。説示によれば、河内守康永は八左衛門と称し、紀州石堂派の備中守康広の門に学んだのち、紀州から大坂に移って大坂石堂派の一人となり、河内守を受領している。その門人である多々良長幸は本国を紀州といい、通称を四郎兵衛と称し、紀州より大坂に移住した康永のもとで学んで師に優る技量を備えたと記される。また花房備前守祐国とその甥祐春も、紀州石堂派の出身でのちに大坂へ移った鍛冶群のうちの工として説示に挙げられる。これらの工は、康広等を中心とした「康」の字を通字とする一群[[c:1]]が紀州時代以来得意とした丁子乱れを大坂の地に伝え、鎌倉時代の備前一文字、ならびに末備前の作風を復興することを志した。 作風について、説示は長幸に二様があると繰り返し記す。その一つは大丁子に小丁子・尖り刃が交じり、足・葉がよく入った華やかな作柄で、石堂派本来の御家芸ともいうべき一文字を狙ったものである。地鉄は小板目肌がつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って乱れ映りが立ち、刃文は丁子乱れに重花丁子風の刃をも交えて総じて焼高く、匂口は締まりごころに明るく冴える。他の一様は、腰の開いた互の目を主調に複式風の刃を交えた作域で、末備前に範をとったもの、就中、与三左衛門尉祐定あたりを狙ったものとされ、姿や茎までも末備前の体配を忠実に写している。一方、師の康永は映りの立った鍛えに丁子乱れを得意として焼き、直ぐに焼出す態に同派・同工の見どころが窺われると説示はいう。祐国・祐春には石堂風の丁子乱れがあまり経眼されず、むしろ沸づいた互の目を主体とした乱れや濤欄風の大互の目乱れ、また直刃もまま見られ、大坂石堂派の中で特徴ある作風を示すと記される。乱れ込んで先が尖り深く返る帽子、鎬地の柾がかる肌、焼出しの存する点などが、見分けにあたっての要点として挙げられている。 鑑定にあたっては、巧みな乱れ映りと華麗な丁子乱れゆえに時代を古く見あやまりやすいことが説示に注意されており、鎬地の柾や帽子の態、刃が小模様となる点を見落としてはならないとされる。伝来の面では、長幸の作に明治の軍人で愛刀家でもあった谷干城旧蔵の一口が複数知られ、また「以千草鉄鍛之」「以南蛮鉄鍛之」の添銘を伴う作が見られて[[c:2]]、当時大坂の鉄問屋を介した良質の鉄の入手や鉄流通の一端を窺わせる資料として記されている。長幸は石堂派伝統の丁子刃を焼き、よく備前伝を学んで新刀備前伝中の第一人者と評され、堂々たる体配に壮麗な丁子乱れを焼き上げた作をもって、大坂石堂を代表する工として位置づけられている。
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