説明

特別保存刀剣鑑定書付 刀 銘:井上和泉守国貞(寛文九年) 【解説】 本作は、寛文九年(1668年:江戸時代前期)に井上和泉守国貞によって打たれた一振りです。作者は二代国貞として知られ、後年には「井上真改」と改銘したことから、今日では真改の名で広く親しまれています。江戸時代前期、1640年代から1680年代にかけて活躍し、大坂鍛冶の最高峰と目される名工です。 真改は寛永七年(1630年)、堀川国広の門人として名高い初代国貞の次男として生まれました。若年より父の名である「国貞」を継承し、後に「井上真改」と銘を改めるまでその名を用いました。そのため、初代を「親国貞」、二代である彼を「真改国貞」と呼び区別しています。承応元年(1652年)には、その優れた技量により朝廷より「和泉守」を受領しました。 慶安年間(1648-1652年)頃、真改は父の代作を数多く務めています。代作とは、師匠の許しを得て弟子や子が師に代わって作刀、あるいは銘を刻むことであり、真改の技量が当時すでに父から絶大な信頼を寄せられていた証と言えます。万治四年(1661年)には、朝廷より菊紋を刻むことを許され、それ以降「井上和泉守国貞」と銘じ、裏には菊紋を配するようになります。本作の茎(なかご)にも、その栄誉ある菊紋が刻まれています。 寛文十二年(1672年)以降、銘を「井上真改」へと改めたことから、本作はまさに彼の円熟期へと向かう重要な時期の作と言えるでしょう。 真改は、洗練された技術と非の打ち所のない工作、そして気品あふれる刃文によって大坂鍛冶の評価を不動のものとしました。その作品は、類稀なる切れ味と堅牢さを兼ね備えていることでも知られています。 また、多くの門人を育成して江戸前期における大坂の繁栄を支え、天和二年(1682年)に五十三歳で没するまで、日本刀史上屈指の名工としての足跡を残しました。 【大坂新刀】 二代国貞の作品は「大坂新刀」に分類されます。新刀とは慶長(1596年)から天明(1781年)頃までに打たれた刀を指し、その中でも大坂で制作されたものは大坂新刀と呼ばれます。豊臣秀吉による大坂城築城後、大坂は城下町、そして経済の中心地として繁栄し、多くの鍛冶が好機を求めて集まりました。彼らは大坂の武士のみならず、全国の諸大名のためにも作刀しました。井上真改、津田越前守助広、一竿子忠綱(粟田口近江守忠綱)などは、その代表格として知られています。 大坂新刀の最大の特徴は、地鉄(じがね)の美しさにあります。大坂は玉鋼の産地との交易が盛んであったため、良質な原料を容易に入手することができ、それが澄んだ美しい地肌を生み出す要因となりました。 本作は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が特に高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。

Antique Japanese Sword Katana Signed by Inoue Izumi no Kami Kunisada NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Katana Signed by Inoue Izumi no Kami Kunisada NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

$28,523

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仕様

長さ

71.3 cm

反り

0.9 cm

流派について

Osaka Shinto School大坂新刀派

大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。

刀剣商

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