義景の在銘作のうち年紀の入るものに延文二年(一三五七)と応安七年(一三七四)の二口があり、この僅かな在銘の作に本工の記録のすべてがかかっている。義景は南北朝期の備前長船の刀工で、説明書が「相伝備前」と称する一群、すなわち兼光一派・長義一派と並んで相州伝の作風を備前で行った長船の手のうちに数えられる。その系統は古来論じられてきた。古い剣書はこれを景光二男とし、あるいは兼光門、あるいは長義門とするが、近年はその作風の類似と逆鏨にきる特色ある銘振りから、「近景や盛景らと同族の長船傍系の刀工ではないか」とする見解が有力視されている。銘鑑は二代を伝え、初代を鎌倉末期頃、二代を貞治頃とするが、在銘確実なものが極めて少なく、初・二代を判然と分かつことは難しい。
説明書の描く手は、長船正系の重花丁子ではなく、直刃を基調とした小模様の多様な乱れである。地の上に直刃を焼き、これに小互の目・小丁子・角がかった刃・尖りごころの刃を交え、刃を小さく、乱れの間を詰めて、小模様ながら密に働く刃取りとする。中に足・逆足・葉さかんに入り、匂勝ちに小沸がやや叢につき、金筋・砂流しが刃中を走り、湯走り状の飛焼を僅かに交える。匂口は沈みごころとなり、まさにそこに極めがある。相伝備前の中で、説明書は「匂口が沈むものに義景の見どころがあり」とする。帽子は乱れ込んで尖りごころに掃きかけ、ある特別重要刀剣の刀では先が尖りごころに返るところを、本工の顕著な特色として挙げる。
その静かな刃のもとにある地鉄は終始変わらぬところである。板目に杢を交えてやや肌立ち、地沸が微塵に厚くつき、地景がよく入り、処々地斑調の肌合を交え、地に乱れ映りが立つ。身幅広い作では地沸を微塵に厚く敷き、太い地景が頻りに入る。この沸の強い鍛えに金筋・砂流しの頻りにかかる出来こそ、戦前の鑑識家が本工を躊躇なく相州伝の刀工に数えた拠り所であり、近年の極めが「相伝備前の作域を顕現」するというところである。
本工の典型は、南北朝盛期の体配を示す身幅広い刀である。身幅広く元先の幅差目立たず、重ねは殊に厚いものが多く、大鋒に結び、多くは大磨上無銘に残る。これに対して稀な在銘作はより穏やかに振れ、ある重要刀剣の太刀は直刃調を基本とし、出来こそ地味であるが、在銘の確かなものが少ないだけに資料として殊に貴重とされる。いま一つの面は薙刀直しで、薙刀から刀・脇指に直したものである。説明書は本工を「古来薙刀の上手」と伝え、その極めには薙刀直しが多く、身幅広め、反り浅く、鎬地を削いで重ね薄く、茎に薙刀樋と添樋の痕跡を残すものがある。延文・応安の二つの年紀は、この多様な作を南北朝中・後期に確実に位置づける。
義景をその隣人から分かつのは、本工の作について極めが言うところである。相伝備前の中で、その刃は「兼光でもなく、長義でもなく」と読まれる。長船正系の丁子より小模様であり、華やかな長義の手より匂口が沈み、しかも兼光一派の作に比して一段と砂流し・金筋を交えた地に焼かれる。逆鏨にきる銘もまた極めと一つに読まれ、説明書は「逆鏨にきる特色ある銘振り」を、本工の手と長船傍系という血脈とを定める標の一つとする。要するに義景は、相伝備前の一群のうちで沸の強い静かな一工であり、その見どころは華やかさではなく抑制にある。
収集の観点では、義景は世に出ることの稀な名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は二口の重要文化財(応安七年紀の在銘脇指は奈良・談山神社に伝わり、ほかに在銘の太刀がある)、三口の特別重要刀剣と六十口ほどの重要刀剣、および戦前の重要美術品を通じる。来歴の知られるものは市場ではなく旧家の手を経る。伊達家に伝わった太刀、有栖川宮家に伝わった一口、茎に大久保四郎左衛門尉の金象嵌の所持銘を留めた刀などである。説明書はその最上の薙刀直しを「同工中の屈指」と称える。在銘確実なものが極めて少なく、現存の多くが大磨上無銘である以上、私蔵の義景が世に現れるのは時に過ぎず、その上手に及ぶものは稀であり、現れればそれは相州伝が長船後期にいかに受け継がれたかを語る静かな証である。