来国光の年紀作は嘉暦元年(1326)に始まり観応二年(1351)に及び、山城国来派を鎌倉時代末葉から南北朝時代前期へと担った。通説に来国俊の子と伝え、或いは弟子ともいう。説明書は「来派の中で最も遺例の多いのは国光である」と記し、その評価は一貫して「来派の中で最も作域の広い器用な刀工」という一点に立ち返る。作風は、京物の伝統的な真の直刃のほか、直刃調に小互の目・小丁子を交えるもの、直刃調に小乱れごころのもの、のたれ調に互の目を交えるもの、互の目主調の乱れのものと多岐にわたり、太刀・短刀・小脇指という形態の多様さと相俟って、その作域の広さを成している。
最も多いのは身幅の広い豪壮な大磨上無銘の刀である。磨り上げてなお深い輪反りを保ち、中鋒はやや延びごころとなる。刃文は中直刃・広直刃調に小互の目・小丁子が目立って交じり、足・葉が繁く入り、匂口は深く明るく冴える。小沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐに小丸に返る。直刃の中に互の目の目立つ点こそ、国俊・国行との鑑別点として説明書に明記されるところである。
鍛えはいずれの作域にも通じて、小板目がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、沸映りが立って鉄が明るく冴える。処々に現れる柔らかい肌合は来肌と呼ばれ、疵ではなく一派の見どころとされる。嘉暦二年紀の短刀では、フクラ辺の沸映りが一種の湯走り状を成して焼刃へ喰い下がるように入る様が記され、同工のみならず来一派に屢々見受けられるものとされる。
短刀は作域の両極を最も端的に担う。内反りの小振りの短刀は素剣・護摩箸の彫物を伴うことが多く、区際の焼込みまで父譲りで、一見国俊に見紛う。細身の直刃の作は初期作と鑑せられる。一方、幅広く寸延びてほとんど反りのない大振りの短刀には、のたれに互の目を交え、また互の目主調の乱れを太刀より一段と強い沸で焼き、相弟子で後輩とみられる来国次と同様に「相州伝的色彩をおびて覇気に満ちている」。嘉暦二年(1327)紀の短刀が既にこの作域の成立を示し、この手の「最も大振なものが名物の新身来である」。銘は造込みに従い、「太刀は比較的に小銘であり、短刀は大振りの銘である」。太刀では棟寄りの低い位置に切り、短刀では目釘孔の下中央に大振りの三字銘を置き、来の字体は父国俊と異なるとされる。銘字には編年が立ち、嘉暦・元徳紀は字形に柔らか味があってクニ構えが丸く、貞和・観応紀はやや硬くなって構えが角ばる。作刀期間の長さとこの作風・銘字の変遷から初・二代の存在を唱える説があり、『古今鍛冶銘尽』は初代を元徳・建武頃、二代を康永頃とするが、一代説も根強く、説明書も今後の検討に俟つべきとしている。
父との比較は端的である。「来国俊に比して品位の点でやや譲るが、迫力では優る感がある」。沸はやや強く、地には地景、刃には金筋・砂流しがかかって覇気を添える。来国行に比べれば大らかさを欠き、焼刃はやや締まりごころに足がよく入り、帽子は尖りごころとなる。幅広の乱れ短刀は一見国次に紛れるが、「国次に比しては焼きが幾分低く、突き上げ気味のするどい帽子に此の工の個性を窺知しうる」。尋常な直刃の作は「一見延寿に紛れるが、熟鑑すれば、一段と優れている」と評される。国次と共に相州伝を加味した作域を担い、南北朝に入る来派本流の最終期を飾った。
藤代の極めは最上作。指定を受けた作は249口を数え、国宝三口・重要文化財二十口は博物館・神社・旧家に文化財として永く伝えられ、その下に重要美術品二十三口、特別重要刀剣・重要刀剣の級に百九十七口がある。在銘と無銘はほぼ相半ばし、太刀は多く大磨上無銘、短刀は多く生ぶ在銘である。伝来の録された刀は五十七口に及ぶ。「徳川家では本庄正宗と共に大事にされた家康佩用の太刀である」一口をはじめ、紀州・尾張・水戸の徳川家、仙台伊達家、加賀前田家、黒田家、島津家、浅野家、細川家、池田家、佐竹家、さらに皇室に伝わり、元禄三年(1690)の本阿弥光常による代五百貫の折紙など本阿弥家の極めがこれに従う。現所蔵の録には東京国立博物館・京都国立博物館・徳川美術館・佐野美術館・静嘉堂文庫美術館などが見える。蒐集家にとって全く手の届かぬ名ではなく、特別重要刀剣・重要刀剣の級には私蔵の作が残り、時に市に現れるが、この位の名となればその機会は稀であり、現れること自体が一つの出来事である。