伯耆国の安綱は古伯耆を代表する刀工であり、湾刀の最古層に立つ。NBTHKの説明はほぼ一口ごとに同じ事実から説き起こす。すなわち名物童子切安綱の存在が「その名を一段と高らしめている」ということであり、同作中では「名物童子切安綱が最も高名である」と記される。銘鑑はその活躍期を大同頃(八〇六〜八一〇)と伝えるが、現存作の作風からすればそれより年代が降り、三条宗近とほぼ同時代、平安時代後期の作者と考えるのが妥当とされ、古い指定には永延頃(九八七〜九八九)とみる見解もある。説明はその時代を「直刀から湾刀に推移し、それが一応定形として落ちついた時代である」と位置づけ、安綱を「湾刀初期の名工」、また「日本刀の初期を代表する名工」と呼ぶ。古伯耆諸工の中にあって在銘作が比較的多く現存することも、繰り返し特筆されるところである。
太刀姿は平安時代の古典的な姿をとどめる。多くは細身で、腰反り高く踏張りがつき、小鋒に結ぶ。説明が繰り返し挙げる姿の特色は、古備前物に比して先に行っての伏しごころがさほど目立たないことである。一方で常より大柄な造込みの例もあり、佐竹家伝来の特別重要刀剣の太刀は、常々見るものより大柄である点が注目されている。
地鉄にこの工の本領がある。鍛えは板目に大板目・杢を交えて肌立ち、地沸が厚くつき、地景・地斑が入り、鉄色は黒みがかって地斑映りが立つ。その黒みの地の上に、直刃調に浅くのたれた沸厚い小乱れを焼き、小互の目・小丁子・小のたれが目立って交じり、金筋・砂流しがかかり、多くは区際を焼き落とす。この出来口を説明は「古備前派などとはやや趣を異にする」と評する。帽子は直ぐに小丸または焼詰めとなり、しばしば掃きかける。一派の中での見どころも指摘されており、ある重要刀剣の説明は「上半には小互の目や小のたれがやや独立した形で交じる」様を安綱ならではの見どころとして挙げている。
銘は佩表の棟寄りに大振りの二字銘を切る。「安」の字より「綱」の字が大きく、綱の字を少し右に寄せて切るのが手癖とされ、この癖は他の古伯耆物にも見られるという。規準は童子切そのものであり、ある重要刀剣の太刀については「銘振りは童子切安綱に全く酷似している」と記され、重要美術品の一口の銘も童子切安綱に類似するとされる。「生ぶ茎の太刀の現存するものは極めて少い」とされ、生ぶ在銘の太刀は頗る貴重である。常の作風のほかに静かな作域も記録されている。小互の目や小のたれの目立たない在銘の太刀は「やや古備前物などに近い出来」と評されて同工の一作風とされ、細直刃仕立てのより渋い一口では、刃境に現れた縦の豊富な働きに同工の特色が看取されている。無銘の大磨上は古雅な地刃をもって極められ、寛文四年(一六六四)の本阿弥光温折紙、寛保三年(一七四三)の本阿弥光勇折紙を伴う例があり、前田家に伯耆安綱と伝来した無銘刀は「一脈大和ごころ」を帯びつつ、その所伝が首肯されている。
彼の作風はそのまま古伯耆一派の典型である。肌立つ黒みの地鉄、地斑映り、焼落しを伴う沸の小乱れが、説明の上で常に古備前と対置される基軸をなし、無銘古作の極めは自然と彼の名に集まる。銘の手癖までが一派に及ぶことは先に見た通りである。説明書群は彼を一人の平安後期の刀工として扱い、代別の議論はなく、湾刀成立期に立つ最初の明確な個性として描いている。
藤代の極めは最上作。指定を受けた作は三十五口を数える。うち国宝二口・重要文化財五口は博物館や社寺、旧家に永く守られる文化財であり、重要美術品六口は昭和八年から十六年にかけて認定され、当時は佐竹家・酒井家・松平家・池田家・前田家・壺井八幡宮などの手にあった。池田家の一口は幕末に長船祐平が磨り上げ、おそらく当時の藩主の指料とされたものである。伝来の録された作は十三口にのぼり、豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠から越前松平家、島津家、皇室に及び、出羽久保田藩主佐竹家は在銘太刀二口を伝えた。所在の知られるものは東京国立博物館・佐野美術館・大神山神社にあり、一口は海を渡ってボストン美術館に蔵される。蒐集家にとって現実の地平は特別重要刀剣二口・重要刀剣十九口の計二十一口であるが、その多くは久しく手放されることがなく、安綱が市に現れること自体が稀であり、まして生ぶ在銘の太刀に出会うことは、この分野で望み得る最も稀な機会の一つである。