大阪新刀を代表する一竿子忠綱は、名を浅井万太夫といい初代忠綱の子。助広、真改と共に大阪三傑と称される名工。延宝頃、近江守を受領し父と同じ粟田口近江守忠綱と切り、号の一竿子を切り始めるのは元禄以降になる。作柄は当初、初代のような長足の丁子刃が多いが、後に互の目や濤瀾刃などの大乱れの刃文が多くなる。 本作は身幅広く、元幅と先幅の差が少ない豪壮な姿。華やかな濤瀾刃は見事で、荒波の中に波しぶきを表現した飛焼きが入る。清涼な小板目肌は良く詰み、地景交じって大阪らしい地鉄。生ぶ茎には珍しく太刀銘に切り、他に太刀銘で知られているのは蜂須賀家の注文による三尺の忠綱(重要文化財)で、あまり類を見ない。また銘に一竿子や近江守を省き短銘にしているのは、後に続く長い添え銘を入れるためと考えられる。 奮椎扇炭精神化成の意訳は「鎚をふるい、炭をあおぐ、魂は形を変え、新たなものとなる」....入魂の一作に間違いはない。 付属の毛抜形太刀拵は誰もが息をのむ出来映えで、銀無垢の総金具は三つ葉葵紋を随所に散らし数え切れないほど。金梨地の鞘にも表裏十八個の高蒔絵を施して、まさに絢爛豪華。徳川美術館収蔵の国綱(重要文化財・徳川家伝来品)には本作と良く似た毛抜形太刀拵が付属しており、そちらは総金地の金具を使用している。 尚、忠綱の重刀指定書にもこの毛抜形太刀拵が付随していると記載されている。 上々作・良業物。第28回 重要刀剣指定品。
一竿子忠綱は初代粟田口近江守忠綱の子で父と同じく近江守を受領した。彼の技術は父に優り、更に刀身彫刻が上手 である。作風は助広の影響をうけて濤欄風の乱刃を焼く。この刀も濤欄風の乱を焼き地刃の出来宜しく、毛抜形太刀拵が 附いている。















Awataguchi (Ikkanshi) Tadatsuna, Osaka Shinto (Settsu) · 摂津 · 1673-1717頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在3点販売中
一竿子忠綱は二代粟田口近江守忠綱、初代近江守忠綱の子で、元禄期を代表する大坂の刀工の一人である。説明書は、通称を万太夫といい、父を継いで二代目の近江守を受領し、粟田口国綱の後裔と称して銘に粟田口を冠し、元禄二年頃より一竿子と号し始めたと記す。当時の大坂を代表する工の一人で、その作はまさに「地刃の華麗と彫刻の装飾美を以て名高い」[[c:1]]。初期の作風は父に近く、その記録の中心は、自らの彫の場を兼ねた身幅広い在銘年紀の刀にある。
本工の特色はまず刃文に読まれる。よくつんだ小板目に、元を直ぐの焼出しに起こし、相関わる二様を焼く。古く受け継いだものは、焼頭のよく揃った足の長い丁子で、初代の得意とした作域そのものであり、長い丁子の足が入り、その足を砂流し・金筋が切って入る。説明書は本工を「父に優る名手で」と評し、その違いを的確に指す。初代の丁子が揃って堂々たるのに対し、二代は匂深く、匂口明るく、小沸のよくつくところで、これを出藍すなわち藍より出でて藍より青しと呼ぶ。
円熟の最も個性的な手は濤瀾乱れ、すなわち収集家のいう簾刃である。説明書はこれを津田助広の系に結びつけ、ある脇指において「得意の津田風の濤欄刃をやき」[[c:3]]と記す。よくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき地景細かに入る地に、浅いのたれを基調として互の目・丁子風を交え、これが大きく波打って濤瀾となり、なお長い丁子の足が入り、匂深く小沸厚くつき、砂流し・金筋頻りにかかり、匂口明るく冴える。帽子は浅くのたれ込んで小丸、掃きかける。穏やかな直刃も数口に残り、三つの面のうち最も静かで稀なもので、同じ明るい小板目の地に焼かれる。
その地鉄は三様すべての底に変わらず通う。鍛えはよくつみ細かによくつんだ小板目で、地沸が厚く、最上手には微塵につき、細かな地景が地を走り、地鉄は明るく冴える。素朴な地ではなく、よく出来た大坂の地であり、刃も彫もこの地の上に置かれる。剣書は本工の作域を、初代に倣う揃った丁子、濤瀾、そして稀な直刃とし、いずれも大坂の長い直ぐの焼出しより起こすとする。
地刃のいずれの特徴にもまして本工を分かつのは彫である。説明書はその刀身彫刻を一竿子彫として賞玩し、「出藍の誉高く」、また「殊に刀身彫刻は巧みで一竿子彫として賞玩されている」[[c:5]]と記す。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梅倶利迦羅、玉追龍、そして鯉の滝上りを彫った。鯉の滝上りは本工が初めて試みたものと思われ、説明書は「同作中でも本刀以外には未見である」[[c:6]]とする。彼は大坂の彫物師藤田通意と関係が深く、「彫同作」と添銘して彫を自身の手と示した。これは初代には全く見られないところで、新刀彫刻に一種の型をつくったものである。
収集の観点では、一竿子忠綱は大坂新刀の主要な名跡で、その作はなお求め得るが、最上のものは商われるより蔵される。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣に数口が及び、長銘の大太刀は重要文化財に達する。説明書はある特別重要刀剣の刀を、最も油ののった時代の代表作で地刃の出来に優れるとし、その一竿子彫を一段と見事とする。特別重要刀剣・重要刀剣の級にはおよそ五十二口が立ち、京都国立博物館に蔵される一口があり、浅井家に伝来した記録のある一口がある。在銘年紀で数も相応に残るため、忠綱は同格の大坂の名手のうちでは比較的世に出やすいが、自らの一竿子彫を帯びた年紀の刀は出れば見ものであり、鯉と倶利迦羅を本工自身が彫った最上のものは、大坂彫刻の極盛を語る証である。
忠綱の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在75点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。
商品がお気に召さなかった場合は、理由の如何に関わらず遠慮なくご返品ください。その際、返送料はお客様のご負担にてお願いします。ご返金は商品到着後、販売時と同じ状態であることを確認の上、即日ご指定口座にお振り込みさせていただきます。店舗にてご購入された場合、クーリングオフの適用範囲外となります。

大阪新刀を代表する一竿子忠綱は、名を浅井万太夫といい初代忠綱の子。助広、真改と共に大阪三傑と称される名工。延宝頃、近江守を受領し父と同じ粟田口近江守忠綱と切り、号の一竿子を切り始めるのは元禄以降になる。作柄は当初、初代のような長足の丁子刃が多いが、後に互の目や濤瀾刃などの大乱れの刃文が多くなる。 本作は身幅広く、元幅と先幅の差が少ない豪壮な姿。華やかな濤瀾刃は見事で、荒波の中に波しぶきを表現した飛焼きが入る。清涼な小板目肌は良く詰み、地景交じって大阪らしい地鉄。生ぶ茎には珍しく太刀銘に切り、他に太刀銘で知られているのは蜂須賀家の注文による三尺の忠綱(重要文化財)で、あまり類を見ない。また銘に一竿子や近江守を省き短銘にしているのは、後に続く長い添え銘を入れるためと考えられる。 奮椎扇炭精神化成の意訳は「鎚をふるい、炭をあおぐ、魂は形を変え、新たなものとなる」....入魂の一作に間違いはない。 付属の毛抜形太刀拵は誰もが息をのむ出来映えで、銀無垢の総金具は三つ葉葵紋を随所に散らし数え切れないほど。金梨地の鞘にも表裏十八個の高蒔絵を施して、まさに絢爛豪華。徳川美術館収蔵の国綱(重要文化財・徳川家伝来品)には本作と良く似た毛抜形太刀拵が付属しており、そちらは総金地の金具を使用している。 尚、忠綱の重刀指定書にもこの毛抜形太刀拵が付随していると記載されている。 上々作・良業物。第28回 重要刀剣指定品。
一竿子忠綱は初代粟田口近江守忠綱の子で父と同じく近江守を受領した。彼の技術は父に優り、更に刀身彫刻が上手 である。作風は助広の影響をうけて濤欄風の乱刃を焼く。この刀も濤欄風の乱を焼き地刃の出来宜しく、毛抜形太刀拵が 附いている。















Awataguchi (Ikkanshi) Tadatsuna, Osaka Shinto (Settsu) · 摂津 · 1673-1717頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在3点販売中
一竿子忠綱は二代粟田口近江守忠綱、初代近江守忠綱の子で、元禄期を代表する大坂の刀工の一人である。説明書は、通称を万太夫といい、父を継いで二代目の近江守を受領し、粟田口国綱の後裔と称して銘に粟田口を冠し、元禄二年頃より一竿子と号し始めたと記す。当時の大坂を代表する工の一人で、その作はまさに「地刃の華麗と彫刻の装飾美を以て名高い」[[c:1]]。初期の作風は父に近く、その記録の中心は、自らの彫の場を兼ねた身幅広い在銘年紀の刀にある。
本工の特色はまず刃文に読まれる。よくつんだ小板目に、元を直ぐの焼出しに起こし、相関わる二様を焼く。古く受け継いだものは、焼頭のよく揃った足の長い丁子で、初代の得意とした作域そのものであり、長い丁子の足が入り、その足を砂流し・金筋が切って入る。説明書は本工を「父に優る名手で」と評し、その違いを的確に指す。初代の丁子が揃って堂々たるのに対し、二代は匂深く、匂口明るく、小沸のよくつくところで、これを出藍すなわち藍より出でて藍より青しと呼ぶ。
円熟の最も個性的な手は濤瀾乱れ、すなわち収集家のいう簾刃である。説明書はこれを津田助広の系に結びつけ、ある脇指において「得意の津田風の濤欄刃をやき」[[c:3]]と記す。よくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき地景細かに入る地に、浅いのたれを基調として互の目・丁子風を交え、これが大きく波打って濤瀾となり、なお長い丁子の足が入り、匂深く小沸厚くつき、砂流し・金筋頻りにかかり、匂口明るく冴える。帽子は浅くのたれ込んで小丸、掃きかける。穏やかな直刃も数口に残り、三つの面のうち最も静かで稀なもので、同じ明るい小板目の地に焼かれる。
その地鉄は三様すべての底に変わらず通う。鍛えはよくつみ細かによくつんだ小板目で、地沸が厚く、最上手には微塵につき、細かな地景が地を走り、地鉄は明るく冴える。素朴な地ではなく、よく出来た大坂の地であり、刃も彫もこの地の上に置かれる。剣書は本工の作域を、初代に倣う揃った丁子、濤瀾、そして稀な直刃とし、いずれも大坂の長い直ぐの焼出しより起こすとする。
地刃のいずれの特徴にもまして本工を分かつのは彫である。説明書はその刀身彫刻を一竿子彫として賞玩し、「出藍の誉高く」、また「殊に刀身彫刻は巧みで一竿子彫として賞玩されている」[[c:5]]と記す。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梅倶利迦羅、玉追龍、そして鯉の滝上りを彫った。鯉の滝上りは本工が初めて試みたものと思われ、説明書は「同作中でも本刀以外には未見である」[[c:6]]とする。彼は大坂の彫物師藤田通意と関係が深く、「彫同作」と添銘して彫を自身の手と示した。これは初代には全く見られないところで、新刀彫刻に一種の型をつくったものである。
収集の観点では、一竿子忠綱は大坂新刀の主要な名跡で、その作はなお求め得るが、最上のものは商われるより蔵される。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣に数口が及び、長銘の大太刀は重要文化財に達する。説明書はある特別重要刀剣の刀を、最も油ののった時代の代表作で地刃の出来に優れるとし、その一竿子彫を一段と見事とする。特別重要刀剣・重要刀剣の級にはおよそ五十二口が立ち、京都国立博物館に蔵される一口があり、浅井家に伝来した記録のある一口がある。在銘年紀で数も相応に残るため、忠綱は同格の大坂の名手のうちでは比較的世に出やすいが、自らの一竿子彫を帯びた年紀の刀は出れば見ものであり、鯉と倶利迦羅を本工自身が彫った最上のものは、大坂彫刻の極盛を語る証である。
忠綱の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在75点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。
商品がお気に召さなかった場合は、理由の如何に関わらず遠慮なくご返品ください。その際、返送料はお客様のご負担にてお願いします。ご返金は商品到着後、販売時と同じ状態であることを確認の上、即日ご指定口座にお振り込みさせていただきます。店舗にてご購入された場合、クーリングオフの適用範囲外となります。
