番号:25556 刀:白鞘入り(日本美術刀剣保存協会 刀剣保存鑑定書) 銘文:無銘(大村加卜) (切付銘)乾鍛錬極精伝為家宝 藤井徳昭文熈父佩之 鞘書き: 越後藩士大村加卜、大磨上無銘也。 元越後高田藩松平家侍医、後水戸徳川光圀公に仕える。 其の作刀、或いは余技と云うも、鍛錬の技極めて精妙なり。 身幅広く豪壮にして、奔放なる丁子乱れを焼いた傑作が存在し、 本作も亦、其の作域を示す優品なり。 刃長二尺二寸二分有之。 探山識(花押) 当社では刀工の出来映えにより、最上作、上々作、上作、普通作に分類しております。 本作は無銘(大村加卜)としては「上々作」にランクされる作品です。 ハバキ:銅単重 長さ:67.2 cm (2尺2寸2分) 反り:2.1 cm (6分9厘) 目釘穴:3個 元幅:3.23 cm 先幅:2.15 cm 重ね:0.68 cm 刀身重量:840 g 体配: 大磨上ながら重ね厚く、反り深く、身幅広く大切っ先となる豪壮な体配。 肉置きが非常に良く、蛤刃の如き健全な姿を保っています。 地鉄: 小板目肌よく練れ、精良で詰んだ地鉄となる。 刃文: 沸出来の丁子乱れが激しく、鎬地には湯走りや飛焼が掛かる。 帽子は丸く返る。 特徴: 本作は大村加卜による稀少な一振りです。 大村左衛門尉加卜は、元は越後高田藩主・松平光長に侍医として仕え、後に水戸の徳川光圀(義公)に召し抱えられました。 当時、松平家に伝来していた名刀「童子切安綱」を拝観して深く感銘を受け、






Omura Kaboku (Echigo / Mito shinto) · 常陸 · 1644-1684頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
大阪にある一刀、正保二年八月の年紀を切る作に、大村加卜は銘とともに小さな主張を刻んだ。造り込みの「真十五枚甲伏」、誇らしき断り書きの「予非鍛冶」、そして九百年の後に物語られんことを期す一句である。この銘の主は大森治部左衛門といい、駿河の駿府郊外安在に生まれた外科医で、医を本業としながら余技として鍛刀に手を染めた。自著『刀剣秘宝』によれば、正保元年三月から刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年間に約百腰を鍛えたという。医をもって越後高田の松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、のち水戸の徳川光圀に随身した。師は明らかでなく、その僅かな在銘作は、刀そのものとともに、長銘の好資料としての価値ゆえに説明書に貴ばれる。
加卜の作風は二手に分かれ、その双方を貫く互の目が、彼の手をひとつに結ぶ糸である。一手は華やかな備前伝である。杢を交えた板目を緻密に鍛え、乱れ映りの立つ地に、大丁子に互の目を交えて焼き、足・葉頻りに入り、匂深く匂口冴え、帽子は僅かに乱れ込んで小丸となる。説明書はこれを石堂系の見事な丁子に通わせ、「石堂風の見事な丁子出来」[[c:3]]と評し、その傑作はこの備前伝の作にありとする。いま一手は相州伝である。そこでは刃は広直刃あるいはのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼くもので、足太く、ほつれ・湯走りを交え、金筋・砂流しが刃中によくかかる。
地鉄は作風によって移ろい、これを読むことが彼の作への最も確かな入口となる。備前伝では鍛えは杢を交えた緻密な板目で、古き映りの地が供する明るい乱れ映りの下に、肌は固くつむ。相州伝では同じ板目がやや肌立ち、ここでは杢や流れ肌を交え、細かな地沸とともに、鈍くもよく入る地景を伴う。現存最後の作では、かな色やや黒みがかると評され、肌目のはっきりとした強い地鉄をなす。姿は江戸前期新刀の体配で、鎬造・庵棟、重ね厚く鎬やや高く、反り浅めに中鋒延びる。説明書は第六十二回作の姿を「頑健で屈強」と称え、尋常な身幅を肉置きたっぷりに帯びるとする。
現存する重要刀剣の各作は、その二様を相照らして見せる。第十一回の刀は備前の声の最も明らかなもので、明るい映りの地に大丁子・互の目を焼いて恐らくその白眉とされ、説明書は「恐らくその白眉であろう」[[c:5]]と記す。第十九回・第二十三回の作は相州に傾き、一は広直刃に互の目・砂流し、一はのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼く。平成二十八年指定、四口中最も詳しく述べられた第六十二回の刀は、その作風の最も強い表明である。広直刃を基調に互の目・丁子風の刃・浅いのたれを連れごころに交え、金筋・砂流し繁く、帽子は焼深く一枚風となって裏に飛焼入る。説明書はこれを「郷義弘を強く意識して制作された」[[c:6]]優秀作と読み、また真改風の広直刃も残すとする。茎には殊のほか長い銘を切り、ほとんどの作に甲伏の枚数を記し、時に安秀と称した。年紀・自称銘のある作が好資料とされるゆえんである。
加卜を分かつのは、いずれの流派にも属さず、備前と相州の間を自在に行き来した余技の工の幅広さである。その備前丁子は彼を早期新刀の石堂系の工に連ねながらそこに縛らず、自らの世紀を越えて郷を見据えた相州伝は、一枚に焼く帽子と厚い沸の働きを彼に与えた。これを彼ほど意図して追った同時代の工は少ない。説明書は門人に坂東太郎伝の名を挙げるが、その系統は遠くまで続かなかった。彼は一派の祖としてよりも、百腰を打ってその書を著した文人の医者、その現存刀を明らかな系統からではなく自らの長銘から読み取られる、一個の特異な人物として記憶される。
収集の観点では、加卜は著名というより稀で特異な名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通じ、四口が公の指定を受け、いずれも刀でいずれも在銘である。現存の折紙に大名伝来を伝えるものはなく、現所持者の多くは記録されず、刀は静岡・鳥取・大阪などの私蔵に帰している。そもそもの作数は少なく、生涯の本業ならざる業の中で打った約百腰であり、指定の作は商われるより蔵されている。在銘の大村加卜が世に出ることは稀である。私蔵の一口は収集家にとって注目すべきものであり、十七世紀の医者が自らの手と言葉で、いかにして何ゆえその刀を鍛えたかを記した長銘ゆえに、なお貴ばれる。
加卜の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 常陸
大村加卜は生国を駿河とし、駿府郊外の安在に生まれ、本名を大森治部左衛門と称した。本来は外科医であり、医術をもって越後高田藩主松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、その後水戸藩の徳川光圀に随身している。作刀は本業の傍らの業であったが、その著書「刀剣秘宝」によると、正保元年三月より刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年の間に百腰を打ったと自ら述べており、活躍は正保から貞享に及ぶ。銘には「越後幕下士大村加卜」[[c:1]]と切り、別に大村加卜安秀とした作も残す。門人に坂東太郎が伝えられる。江戸・水戸圏に拠った新刀期の工であり、医を本分とする学者肌の経歴が、その作刀の性格をよく映している。 作風には大きく三手があり、丁子乱れの華やかな備前伝、沸の強い大乱れの相州伝、そして真改風の広直刃が認められる。備前伝のものは石堂風の見事な丁子出来となり、大丁子に互の目を交え、足・葉を頻りに入れ、乱れ映りの立つ作には傑作が見られる。相州伝のものは、広直刃を基調に互の目やのたれを連れごころに交え、足太く入り、ほつれ・湯走り風を見せ、金筋・砂流しがよくかかる。帽子を一枚風に深く焼くのもこの手の特色で、郷義弘を強く意識した出来に至る作もある。見分けの要としては、鍛えが板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸・地景が入って肌目のはっきりとした強い地鉄となる点、姿が重ね厚く鎬高く中鋒延びて頑健の感を示す点が挙げられる。 伝承の上で加卜を端的に示すのが、その特異な鍛法と銘振りである。「真十五枚甲伏造」「真十枚甲伏造」など独自の鍛えを用い、その鍛法を裏の添銘に記すことが作刀の殆んどに見られる。また「予非鍛冶(予鍛冶ニ非ズ)」と添える銘もあり、刀工を本業とせぬ自負がうかがえて面目躍如たるところである。安秀と称した正保二年紀の作はその初期の好資料となり、後年には金象嵌「大堰川」を施した優秀作も伝わる。これは直刃を京都の大堰川に見立てたものであろうが、その意は伝えられていない。本業を医に置きながら備前・相州の両伝を能くし、独自の鍛法と添銘に学者肌の刀工の個性を刻んだ点に、新刀期における異色の位置づけが認められる。
| 刀工 | 時代 | 指定 |
|---|---|---|
| 加卜 | 1644-1684 | 5 |
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。
番号:25556 刀:白鞘入り(日本美術刀剣保存協会 刀剣保存鑑定書) 銘文:無銘(大村加卜) (切付銘)乾鍛錬極精伝為家宝 藤井徳昭文熈父佩之 鞘書き: 越後藩士大村加卜、大磨上無銘也。 元越後高田藩松平家侍医、後水戸徳川光圀公に仕える。 其の作刀、或いは余技と云うも、鍛錬の技極めて精妙なり。 身幅広く豪壮にして、奔放なる丁子乱れを焼いた傑作が存在し、 本作も亦、其の作域を示す優品なり。 刃長二尺二寸二分有之。 探山識(花押) 当社では刀工の出来映えにより、最上作、上々作、上作、普通作に分類しております。 本作は無銘(大村加卜)としては「上々作」にランクされる作品です。 ハバキ:銅単重 長さ:67.2 cm (2尺2寸2分) 反り:2.1 cm (6分9厘) 目釘穴:3個 元幅:3.23 cm 先幅:2.15 cm 重ね:0.68 cm 刀身重量:840 g 体配: 大磨上ながら重ね厚く、反り深く、身幅広く大切っ先となる豪壮な体配。 肉置きが非常に良く、蛤刃の如き健全な姿を保っています。 地鉄: 小板目肌よく練れ、精良で詰んだ地鉄となる。 刃文: 沸出来の丁子乱れが激しく、鎬地には湯走りや飛焼が掛かる。 帽子は丸く返る。 特徴: 本作は大村加卜による稀少な一振りです。 大村左衛門尉加卜は、元は越後高田藩主・松平光長に侍医として仕え、後に水戸の徳川光圀(義公)に召し抱えられました。 当時、松平家に伝来していた名刀「童子切安綱」を拝観して深く感銘を受け、






Omura Kaboku (Echigo / Mito shinto) · 常陸 · 1644-1684頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
大阪にある一刀、正保二年八月の年紀を切る作に、大村加卜は銘とともに小さな主張を刻んだ。造り込みの「真十五枚甲伏」、誇らしき断り書きの「予非鍛冶」、そして九百年の後に物語られんことを期す一句である。この銘の主は大森治部左衛門といい、駿河の駿府郊外安在に生まれた外科医で、医を本業としながら余技として鍛刀に手を染めた。自著『刀剣秘宝』によれば、正保元年三月から刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年間に約百腰を鍛えたという。医をもって越後高田の松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、のち水戸の徳川光圀に随身した。師は明らかでなく、その僅かな在銘作は、刀そのものとともに、長銘の好資料としての価値ゆえに説明書に貴ばれる。
加卜の作風は二手に分かれ、その双方を貫く互の目が、彼の手をひとつに結ぶ糸である。一手は華やかな備前伝である。杢を交えた板目を緻密に鍛え、乱れ映りの立つ地に、大丁子に互の目を交えて焼き、足・葉頻りに入り、匂深く匂口冴え、帽子は僅かに乱れ込んで小丸となる。説明書はこれを石堂系の見事な丁子に通わせ、「石堂風の見事な丁子出来」[[c:3]]と評し、その傑作はこの備前伝の作にありとする。いま一手は相州伝である。そこでは刃は広直刃あるいはのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼くもので、足太く、ほつれ・湯走りを交え、金筋・砂流しが刃中によくかかる。
地鉄は作風によって移ろい、これを読むことが彼の作への最も確かな入口となる。備前伝では鍛えは杢を交えた緻密な板目で、古き映りの地が供する明るい乱れ映りの下に、肌は固くつむ。相州伝では同じ板目がやや肌立ち、ここでは杢や流れ肌を交え、細かな地沸とともに、鈍くもよく入る地景を伴う。現存最後の作では、かな色やや黒みがかると評され、肌目のはっきりとした強い地鉄をなす。姿は江戸前期新刀の体配で、鎬造・庵棟、重ね厚く鎬やや高く、反り浅めに中鋒延びる。説明書は第六十二回作の姿を「頑健で屈強」と称え、尋常な身幅を肉置きたっぷりに帯びるとする。
現存する重要刀剣の各作は、その二様を相照らして見せる。第十一回の刀は備前の声の最も明らかなもので、明るい映りの地に大丁子・互の目を焼いて恐らくその白眉とされ、説明書は「恐らくその白眉であろう」[[c:5]]と記す。第十九回・第二十三回の作は相州に傾き、一は広直刃に互の目・砂流し、一はのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼く。平成二十八年指定、四口中最も詳しく述べられた第六十二回の刀は、その作風の最も強い表明である。広直刃を基調に互の目・丁子風の刃・浅いのたれを連れごころに交え、金筋・砂流し繁く、帽子は焼深く一枚風となって裏に飛焼入る。説明書はこれを「郷義弘を強く意識して制作された」[[c:6]]優秀作と読み、また真改風の広直刃も残すとする。茎には殊のほか長い銘を切り、ほとんどの作に甲伏の枚数を記し、時に安秀と称した。年紀・自称銘のある作が好資料とされるゆえんである。
加卜を分かつのは、いずれの流派にも属さず、備前と相州の間を自在に行き来した余技の工の幅広さである。その備前丁子は彼を早期新刀の石堂系の工に連ねながらそこに縛らず、自らの世紀を越えて郷を見据えた相州伝は、一枚に焼く帽子と厚い沸の働きを彼に与えた。これを彼ほど意図して追った同時代の工は少ない。説明書は門人に坂東太郎伝の名を挙げるが、その系統は遠くまで続かなかった。彼は一派の祖としてよりも、百腰を打ってその書を著した文人の医者、その現存刀を明らかな系統からではなく自らの長銘から読み取られる、一個の特異な人物として記憶される。
収集の観点では、加卜は著名というより稀で特異な名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通じ、四口が公の指定を受け、いずれも刀でいずれも在銘である。現存の折紙に大名伝来を伝えるものはなく、現所持者の多くは記録されず、刀は静岡・鳥取・大阪などの私蔵に帰している。そもそもの作数は少なく、生涯の本業ならざる業の中で打った約百腰であり、指定の作は商われるより蔵されている。在銘の大村加卜が世に出ることは稀である。私蔵の一口は収集家にとって注目すべきものであり、十七世紀の医者が自らの手と言葉で、いかにして何ゆえその刀を鍛えたかを記した長銘ゆえに、なお貴ばれる。
加卜の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 常陸
大村加卜は生国を駿河とし、駿府郊外の安在に生まれ、本名を大森治部左衛門と称した。本来は外科医であり、医術をもって越後高田藩主松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、その後水戸藩の徳川光圀に随身している。作刀は本業の傍らの業であったが、その著書「刀剣秘宝」によると、正保元年三月より刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年の間に百腰を打ったと自ら述べており、活躍は正保から貞享に及ぶ。銘には「越後幕下士大村加卜」[[c:1]]と切り、別に大村加卜安秀とした作も残す。門人に坂東太郎が伝えられる。江戸・水戸圏に拠った新刀期の工であり、医を本分とする学者肌の経歴が、その作刀の性格をよく映している。 作風には大きく三手があり、丁子乱れの華やかな備前伝、沸の強い大乱れの相州伝、そして真改風の広直刃が認められる。備前伝のものは石堂風の見事な丁子出来となり、大丁子に互の目を交え、足・葉を頻りに入れ、乱れ映りの立つ作には傑作が見られる。相州伝のものは、広直刃を基調に互の目やのたれを連れごころに交え、足太く入り、ほつれ・湯走り風を見せ、金筋・砂流しがよくかかる。帽子を一枚風に深く焼くのもこの手の特色で、郷義弘を強く意識した出来に至る作もある。見分けの要としては、鍛えが板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸・地景が入って肌目のはっきりとした強い地鉄となる点、姿が重ね厚く鎬高く中鋒延びて頑健の感を示す点が挙げられる。 伝承の上で加卜を端的に示すのが、その特異な鍛法と銘振りである。「真十五枚甲伏造」「真十枚甲伏造」など独自の鍛えを用い、その鍛法を裏の添銘に記すことが作刀の殆んどに見られる。また「予非鍛冶(予鍛冶ニ非ズ)」と添える銘もあり、刀工を本業とせぬ自負がうかがえて面目躍如たるところである。安秀と称した正保二年紀の作はその初期の好資料となり、後年には金象嵌「大堰川」を施した優秀作も伝わる。これは直刃を京都の大堰川に見立てたものであろうが、その意は伝えられていない。本業を医に置きながら備前・相州の両伝を能くし、独自の鍛法と添銘に学者肌の刀工の個性を刻んだ点に、新刀期における異色の位置づけが認められる。
| 刀工 | 時代 | 指定 |
|---|---|---|
| 加卜 | 1644-1684 | 5 |
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。