大阪にある一刀、正保二年八月の年紀を切る作に、大村加卜は銘とともに小さな主張を刻んだ。造り込みの「真十五枚甲伏」、誇らしき断り書きの「予非鍛冶」、そして九百年の後に物語られんことを期す一句である。この銘の主は大森治部左衛門といい、駿河の駿府郊外安在に生まれた外科医で、医を本業としながら余技として鍛刀に手を染めた。自著『刀剣秘宝』によれば、正保元年三月から刀を打ち始め、貞享元年までの四十一年間に約百腰を鍛えたという。医をもって越後高田の松平光長に仕え、同家の改易後は浪人して江戸に上り、のち水戸の徳川光圀に随身した。師は明らかでなく、その僅かな在銘作は、刀そのものとともに、長銘の好資料としての価値ゆえに説明書に貴ばれる。
加卜の作風は二手に分かれ、その双方を貫く互の目が、彼の手をひとつに結ぶ糸である。一手は華やかな備前伝である。杢を交えた板目を緻密に鍛え、乱れ映りの立つ地に、大丁子に互の目を交えて焼き、足・葉頻りに入り、匂深く匂口冴え、帽子は僅かに乱れ込んで小丸となる。説明書はこれを石堂系の見事な丁子に通わせ、「石堂風の見事な丁子出来」と評し、その傑作はこの備前伝の作にありとする。いま一手は相州伝である。そこでは刃は広直刃あるいはのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼くもので、足太く、ほつれ・湯走りを交え、金筋・砂流しが刃中によくかかる。
地鉄は作風によって移ろい、これを読むことが彼の作への最も確かな入口となる。備前伝では鍛えは杢を交えた緻密な板目で、古き映りの地が供する明るい乱れ映りの下に、肌は固くつむ。相州伝では同じ板目がやや肌立ち、ここでは杢や流れ肌を交え、細かな地沸とともに、鈍くもよく入る地景を伴う。現存最後の作では、かな色やや黒みがかると評され、肌目のはっきりとした強い地鉄をなす。姿は江戸前期新刀の体配で、鎬造・庵棟、重ね厚く鎬やや高く、反り浅めに中鋒延びる。説明書は第六十二回作の姿を「頑健で屈強」と称え、尋常な身幅を肉置きたっぷりに帯びるとする。
現存する重要刀剣の各作は、その二様を相照らして見せる。第十一回の刀は備前の声の最も明らかなもので、明るい映りの地に大丁子・互の目を焼いて恐らくその白眉とされ、説明書は「恐らくその白眉であろう」と記す。第十九回・第二十三回の作は相州に傾き、一は広直刃に互の目・砂流し、一はのたれ調の大互の目乱れを沸深く焼く。平成二十八年指定、四口中最も詳しく述べられた第六十二回の刀は、その作風の最も強い表明である。広直刃を基調に互の目・丁子風の刃・浅いのたれを連れごころに交え、金筋・砂流し繁く、帽子は焼深く一枚風となって裏に飛焼入る。説明書はこれを「郷義弘を強く意識して制作された」優秀作と読み、また真改風の広直刃も残すとする。茎には殊のほか長い銘を切り、ほとんどの作に甲伏の枚数を記し、時に安秀と称した。年紀・自称銘のある作が好資料とされるゆえんである。
加卜を分かつのは、いずれの流派にも属さず、備前と相州の間を自在に行き来した余技の工の幅広さである。その備前丁子は彼を早期新刀の石堂系の工に連ねながらそこに縛らず、自らの世紀を越えて郷を見据えた相州伝は、一枚に焼く帽子と厚い沸の働きを彼に与えた。これを彼ほど意図して追った同時代の工は少ない。説明書は門人に坂東太郎伝の名を挙げるが、その系統は遠くまで続かなかった。彼は一派の祖としてよりも、百腰を打ってその書を著した文人の医者、その現存刀を明らかな系統からではなく自らの長銘から読み取られる、一個の特異な人物として記憶される。
収集の観点では、加卜は著名というより稀で特異な名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通じ、四口が公の指定を受け、いずれも刀でいずれも在銘である。現存の折紙に大名伝来を伝えるものはなく、現所持者の多くは記録されず、刀は静岡・鳥取・大阪などの私蔵に帰している。そもそもの作数は少なく、生涯の本業ならざる業の中で打った約百腰であり、指定の作は商われるより蔵されている。在銘の大村加卜が世に出ることは稀である。私蔵の一口は収集家にとって注目すべきものであり、十七世紀の医者が自らの手と言葉で、いかにして何ゆえその刀を鍛えたかを記した長銘ゆえに、なお貴ばれる。