参勤交代が集めた日本最大の帯刀人口が江戸にあった。御用鍛冶康継は茎に葵紋を許され、虎徹の刀は截断銘の金象嵌を帯びる。この町では、証こそが物を言った。
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K] Jyuyo Token No.38
長曽祢乕徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称を三之丞と称したといわれ、 興里 と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは「馬 徹」の字を使用している。年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴え るのが特徴で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が連れた刃を、後期には数珠刃と呼ばれる独特 の互の目乱れを焼いて、その技量は高く評価されている。 この刀は、小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景の細かによく入った鍛えに、直刃調浅くのたれて互の目の連れた刃を焼き、足 よく入り、匂深く、小沸が厚くよくつき、細かに金筋・砂流しがかかるなどの出来口を示している。彼の得意とした数珠刃の作域をあらわして いるが、とりわけ鍛えが精美で見事であり、加えるに地刃の冴えは抜群である。さらに焼刃の匂口は、旬の深い中にもしまった感があり、刃味 のよさを示している。なお本刀は、棒樋を区やや高めのところで丸留にしているが、これも同工によく見受けられる手くせである。馬徹の特色 が遺憾なく発揮された一口で、特に優れた出来映えを見せている。 年紀はないが銘振りから鑑て、おそらく寛文十一年頃の作と思われる。また 体配は身幅尋常で、元先の幅差が目立ち、反りが深くつき、しかも佩表に銘をきっているところから思うに、おそらく太刀として作られたもの であろう。同作中太刀の遺例は少なく、出来の点と併せて、馬徹研究上貴重な資料でもある。もと山田浅右衛門の佩刀である。














長曽祢乕徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称を三之丞と称したといわれ、 興里 と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは「馬 徹」の字を使用している。年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴え るのが特徴で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が連れた刃を、後期には数珠刃と呼ばれる独特 の互の目乱れを焼いて、その技量は高く評価されている。 この刀は、小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景の細かによく入った鍛えに、直刃調浅くのたれて互の目の連れた刃を焼き、足 よく入り、匂深く、小沸が厚くよくつき、細かに金筋・砂流しがかかるなどの出来口を示している。彼の得意とした数珠刃の作域をあらわして いるが、とりわけ鍛えが精美で見事であり、加えるに地刃の冴えは抜群である。さらに焼刃の匂口は、旬の深い中にもしまった感があり、刃味 のよさを示している。なお本刀は、棒樋を区やや高めのところで丸留にしているが、これも同工によく見受けられる手くせである。馬徹の特色 が遺憾なく発揮された一口で、特に優れた出来映えを見せている。 年紀はないが銘振りから鑑て、おそらく寛文十一年頃の作と思われる。また 体配は身幅尋常で、元先の幅差が目立ち、反りが深くつき、しかも佩表に銘をきっているところから思うに、おそらく太刀として作られたもの であろう。同作中太刀の遺例は少なく、出来の点と併せて、馬徹研究上貴重な資料でもある。もと山田浅右衛門の佩刀である。
新刀 · 武蔵 · 1661-1673頃
刀剣大鑑 上位3%
新刀 · 武蔵
現在4点販売中
長曽祢虎徹興里は元々越前の甲冑師であり、明暦二年頃、五十歳ばかりの頃に江戸へ出て刀鍛冶へ転じたと伝える。通称を三之丞と称し、興里と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」、さらに寛文四年八月からは「乕徹」「馬徹」の字を使用している。年紀のある作では明暦二年が最初期、延宝五年がその下限とされ、武蔵国江戸の東叡山忍岡辺に住したことが住居地銘にうかがえる。その系では、通説に虎徹の門に学んで後に養子となり二代目を継承したと伝える長曽祢興正があり、経眼される年紀は寛文十三年から元禄三年に及ぶ。興正の技倆は師に次いで巧みで、虎徹晩年の作のうちには興正の代作が含まれていると考えられている。江戸中期、寛文を中心とする新刀の只中に立ち、甲冑師の出という異色の経歴から鍛刀の名門が興った。 作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴えるのを特色とし、作刀の多くに焼出しを伴う。鍛えは小板目肌がよくつんで杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、腰元には梃子鉄と称する大肌や地斑状の肌合を交えることがあり、かねが冴える。刃文は前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がって出入りのある乱れを焼き、後期には焼の出入りに変化の少ない、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼く。これに伴い銘も前期の「はね虎」から寛文四年に「はこ虎」へ改まり、作域の推移と対応する。足が太く頻りに入り、匂深く小沸が厚くつき、金筋・砂流しのかかるものが多い。帽子は直ぐに小丸とし、横手を互の目で跨ぐいわゆる乕徹帽子を見せるのが見分けの要となる。姿は元先の幅差がつき反り浅く中鋒のつまる寛文新刀の体配で、手持ちの重い頑健なものが多く、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を自身彫として添えた作も知られる。興正は師ゆずりの数珠刃を継ぎつつ、匂深く沸の覇気ある刃を焼き、互の目丁子を交えるなど独自を追った持ち味を示す。 虎徹が収集家に重んじられるのは、地刃の冴えと数珠刃の見どころに加え、記録された截断の評による。寛文五年三月の貳ツ胴切落、同年十一月の両車切落、寛文元年の三ツ胴截断など、山野勘十郎久英・山野加右衛門永久らによる金象嵌截断銘が遺り、その切れ味の高さを今に伝える。截断は必ずしも直ちに象嵌されたものではなく、後日まとめて施された例もこれらの銘から知られる。伝来の確かな作も尊ばれ、肥前国鍋島家に伝わって佐藤寒山博士の鞘書に鍋島虎徹の異名を記すものがある。鑑定の要点は、明るく冴える地刃、前期の瓢箪刃と後期の数珠刃という時期による作域の違い、乕徹帽子の所作、銘振りの推移にあり、年紀を欠く作でも銘と作域から制作期を推し量ることができる。短刀は作例が極めて少なく、相州伝の趣を強く感じさせるものが知られる。甲冑師から転じて一代で名を成し、後継の興正へと技を伝えたこの系は、江戸新刀を代表する一門として確固たる位置を占めている。 詳しく見る →
参勤交代が集めた日本最大の帯刀人口が江戸にあった。御用鍛冶康継は茎に葵紋を許され、虎徹の刀は截断銘の金象嵌を帯びる。この町では、証こそが物を言った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K] Jyuyo Token No.38
長曽祢乕徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称を三之丞と称したといわれ、 興里 と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは「馬 徹」の字を使用している。年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴え るのが特徴で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が連れた刃を、後期には数珠刃と呼ばれる独特 の互の目乱れを焼いて、その技量は高く評価されている。 この刀は、小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景の細かによく入った鍛えに、直刃調浅くのたれて互の目の連れた刃を焼き、足 よく入り、匂深く、小沸が厚くよくつき、細かに金筋・砂流しがかかるなどの出来口を示している。彼の得意とした数珠刃の作域をあらわして いるが、とりわけ鍛えが精美で見事であり、加えるに地刃の冴えは抜群である。さらに焼刃の匂口は、旬の深い中にもしまった感があり、刃味 のよさを示している。なお本刀は、棒樋を区やや高めのところで丸留にしているが、これも同工によく見受けられる手くせである。馬徹の特色 が遺憾なく発揮された一口で、特に優れた出来映えを見せている。 年紀はないが銘振りから鑑て、おそらく寛文十一年頃の作と思われる。また 体配は身幅尋常で、元先の幅差が目立ち、反りが深くつき、しかも佩表に銘をきっているところから思うに、おそらく太刀として作られたもの であろう。同作中太刀の遺例は少なく、出来の点と併せて、馬徹研究上貴重な資料でもある。もと山田浅右衛門の佩刀である。














長曽祢乕徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称を三之丞と称したといわれ、 興里 と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは「馬 徹」の字を使用している。年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴え るのが特徴で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が連れた刃を、後期には数珠刃と呼ばれる独特 の互の目乱れを焼いて、その技量は高く評価されている。 この刀は、小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景の細かによく入った鍛えに、直刃調浅くのたれて互の目の連れた刃を焼き、足 よく入り、匂深く、小沸が厚くよくつき、細かに金筋・砂流しがかかるなどの出来口を示している。彼の得意とした数珠刃の作域をあらわして いるが、とりわけ鍛えが精美で見事であり、加えるに地刃の冴えは抜群である。さらに焼刃の匂口は、旬の深い中にもしまった感があり、刃味 のよさを示している。なお本刀は、棒樋を区やや高めのところで丸留にしているが、これも同工によく見受けられる手くせである。馬徹の特色 が遺憾なく発揮された一口で、特に優れた出来映えを見せている。 年紀はないが銘振りから鑑て、おそらく寛文十一年頃の作と思われる。また 体配は身幅尋常で、元先の幅差が目立ち、反りが深くつき、しかも佩表に銘をきっているところから思うに、おそらく太刀として作られたもの であろう。同作中太刀の遺例は少なく、出来の点と併せて、馬徹研究上貴重な資料でもある。もと山田浅右衛門の佩刀である。
新刀 · 武蔵 · 1661-1673頃
刀剣大鑑 上位3%
新刀 · 武蔵
現在4点販売中
長曽祢虎徹興里は元々越前の甲冑師であり、明暦二年頃、五十歳ばかりの頃に江戸へ出て刀鍛冶へ転じたと伝える。通称を三之丞と称し、興里と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」、さらに寛文四年八月からは「乕徹」「馬徹」の字を使用している。年紀のある作では明暦二年が最初期、延宝五年がその下限とされ、武蔵国江戸の東叡山忍岡辺に住したことが住居地銘にうかがえる。その系では、通説に虎徹の門に学んで後に養子となり二代目を継承したと伝える長曽祢興正があり、経眼される年紀は寛文十三年から元禄三年に及ぶ。興正の技倆は師に次いで巧みで、虎徹晩年の作のうちには興正の代作が含まれていると考えられている。江戸中期、寛文を中心とする新刀の只中に立ち、甲冑師の出という異色の経歴から鍛刀の名門が興った。 作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴えるのを特色とし、作刀の多くに焼出しを伴う。鍛えは小板目肌がよくつんで杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、腰元には梃子鉄と称する大肌や地斑状の肌合を交えることがあり、かねが冴える。刃文は前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がって出入りのある乱れを焼き、後期には焼の出入りに変化の少ない、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼く。これに伴い銘も前期の「はね虎」から寛文四年に「はこ虎」へ改まり、作域の推移と対応する。足が太く頻りに入り、匂深く小沸が厚くつき、金筋・砂流しのかかるものが多い。帽子は直ぐに小丸とし、横手を互の目で跨ぐいわゆる乕徹帽子を見せるのが見分けの要となる。姿は元先の幅差がつき反り浅く中鋒のつまる寛文新刀の体配で、手持ちの重い頑健なものが多く、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を自身彫として添えた作も知られる。興正は師ゆずりの数珠刃を継ぎつつ、匂深く沸の覇気ある刃を焼き、互の目丁子を交えるなど独自を追った持ち味を示す。 虎徹が収集家に重んじられるのは、地刃の冴えと数珠刃の見どころに加え、記録された截断の評による。寛文五年三月の貳ツ胴切落、同年十一月の両車切落、寛文元年の三ツ胴截断など、山野勘十郎久英・山野加右衛門永久らによる金象嵌截断銘が遺り、その切れ味の高さを今に伝える。截断は必ずしも直ちに象嵌されたものではなく、後日まとめて施された例もこれらの銘から知られる。伝来の確かな作も尊ばれ、肥前国鍋島家に伝わって佐藤寒山博士の鞘書に鍋島虎徹の異名を記すものがある。鑑定の要点は、明るく冴える地刃、前期の瓢箪刃と後期の数珠刃という時期による作域の違い、乕徹帽子の所作、銘振りの推移にあり、年紀を欠く作でも銘と作域から制作期を推し量ることができる。短刀は作例が極めて少なく、相州伝の趣を強く感じさせるものが知られる。甲冑師から転じて一代で名を成し、後継の興正へと技を伝えたこの系は、江戸新刀を代表する一門として確固たる位置を占めている。 詳しく見る →
参勤交代が集めた日本最大の帯刀人口が江戸にあった。御用鍛冶康継は茎に葵紋を許され、虎徹の刀は截断銘の金象嵌を帯びる。この町では、証こそが物を言った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません