1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
特別保存刀剣鑑定書付 銘:源正雄(安政六年二月日) 西野源祐寿持之 於蝦夷地以産砂鉄作之 【解説】 概要 本作は幕末の名工、源正雄(みなもと まさお)による安政六年(1859年)の作であり、西野源祐寿の注文により打たれた一振りです。銘文にある通り、当時の蝦夷地(現在の北海道)において、現地産の砂鉄を用いて鍛錬された極めて資料的価値の高い一振です。 正雄は幕末の江戸を代表する名工であり、本名を鈴木次郎、美濃国の出身です。幕末四天王の一人に数えられる天才、源清麿(みなもと きよまろ)の門下において、筆頭弟子としてその名を馳せました。師である清麿からの信頼は絶大で、師の銘を代わって切る「代銘」や、師に代わって作刀する「代作」を任されるほど、その技量は高く評価されていました。師を支えることに心血を注いだため、正雄自身の銘が切られた作品は現存数が少なく、希少とされています。 正雄が独立したのは嘉永六年(1853年)頃とされ、当初は江戸の御徒町に居住していました。 特筆すべきは、本作が打たれた背景にある蝦夷地との関わりです。安政五年(1857年)、正雄は幕府直轄領であった松前藩(北海道)に招かれます。当時、幕府は函館に五稜郭を築城し、現地の砂鉄を用いた製鉄所の開設を進めていました。正雄が招かれたのは、その鉄の品質を検分し、作刀技術を指導するためであったと推察されます。正雄の蝦夷地滞在は約三年という短期間であり、その間に打たれた本作は非常に稀少な例といえます。正雄の作刀期間は安政から慶応にかけてのわずか十二年ほどであり、その短い活動期間の中で生まれた傑作です。 歴史的背景 江戸時代初期から中期にかけての泰平の世では、刀剣は武士の象徴としての装飾的な側面が強まり、実戦の機会は失われていました。しかし、幕末という激動の時代を迎えると、その役割は一変します。 国内の政情不安や黒船来航による開国の圧力が高まる中、刀剣には再び「武器」としての実用性が強く求められるようになりました。正雄をはじめとする当時の刀匠たちは、来るべき戦乱に備え、極めて実戦的かつ堅牢な刀を追求しました。 本作が打たれたのは、徳川幕府と新政府軍による戊辰戦争へと向かう動乱の最中です。当時の持ち主もまた、武士の時代の終焉をこの刀と共に目撃したのかもしれません。本作の力強い姿は、まさにその時代の要求に応えた実戦本位の美しさを体現しています。 本作は、公益財団法人日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により、美術的価値が高く、保存状態が極めて優れていることを証明する「特別保存刀剣」に指定されています。 【刀身】 長さ(刃長):






















新々刀 · 武蔵 · 1844-1857頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
現在3点販売中
正雄の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在15点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
特別保存刀剣鑑定書付 銘:源正雄(安政六年二月日) 西野源祐寿持之 於蝦夷地以産砂鉄作之 【解説】 概要 本作は幕末の名工、源正雄(みなもと まさお)による安政六年(1859年)の作であり、西野源祐寿の注文により打たれた一振りです。銘文にある通り、当時の蝦夷地(現在の北海道)において、現地産の砂鉄を用いて鍛錬された極めて資料的価値の高い一振です。 正雄は幕末の江戸を代表する名工であり、本名を鈴木次郎、美濃国の出身です。幕末四天王の一人に数えられる天才、源清麿(みなもと きよまろ)の門下において、筆頭弟子としてその名を馳せました。師である清麿からの信頼は絶大で、師の銘を代わって切る「代銘」や、師に代わって作刀する「代作」を任されるほど、その技量は高く評価されていました。師を支えることに心血を注いだため、正雄自身の銘が切られた作品は現存数が少なく、希少とされています。 正雄が独立したのは嘉永六年(1853年)頃とされ、当初は江戸の御徒町に居住していました。 特筆すべきは、本作が打たれた背景にある蝦夷地との関わりです。安政五年(1857年)、正雄は幕府直轄領であった松前藩(北海道)に招かれます。当時、幕府は函館に五稜郭を築城し、現地の砂鉄を用いた製鉄所の開設を進めていました。正雄が招かれたのは、その鉄の品質を検分し、作刀技術を指導するためであったと推察されます。正雄の蝦夷地滞在は約三年という短期間であり、その間に打たれた本作は非常に稀少な例といえます。正雄の作刀期間は安政から慶応にかけてのわずか十二年ほどであり、その短い活動期間の中で生まれた傑作です。 歴史的背景 江戸時代初期から中期にかけての泰平の世では、刀剣は武士の象徴としての装飾的な側面が強まり、実戦の機会は失われていました。しかし、幕末という激動の時代を迎えると、その役割は一変します。 国内の政情不安や黒船来航による開国の圧力が高まる中、刀剣には再び「武器」としての実用性が強く求められるようになりました。正雄をはじめとする当時の刀匠たちは、来るべき戦乱に備え、極めて実戦的かつ堅牢な刀を追求しました。 本作が打たれたのは、徳川幕府と新政府軍による戊辰戦争へと向かう動乱の最中です。当時の持ち主もまた、武士の時代の終焉をこの刀と共に目撃したのかもしれません。本作の力強い姿は、まさにその時代の要求に応えた実戦本位の美しさを体現しています。 本作は、公益財団法人日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により、美術的価値が高く、保存状態が極めて優れていることを証明する「特別保存刀剣」に指定されています。 【刀身】 長さ(刃長):






















新々刀 · 武蔵 · 1844-1857頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
現在3点販売中
正雄の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在15点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.