三人の天下人が戦国の世紀を終わらせ、刀は新しい秩序の道具となった。1588年の刀狩は刀を武士の標章とし、名刀は条約のごとく家々の間を行き交い、鑑定は以後この境で古刀と新刀を分かつ。
概要 この刀は、越前国(現在の福井県)の慶長年間(1596-1615:江戸時代初期)に活動した肥後大掾貞国に伝(属性)とされています。彼は江戸時代の同国において最も名高い流派の一つである越前下坂派に属していました。彼はこの流派における著名な人物でした。彼は流派の祖である初代康継の弟であったと言われています。そして、貞国は彫物(刀身への彫刻)の技術において虎徹の師であったとされています。大掾とは、当時、高度な技術を持つ刀工にのみ与えられた官位です。 越前下坂派について 初代康継が越前下坂派の祖であると言われています。彼は室町時代末期(16世紀後半)に滋賀県の下坂町で生まれました。彼は慶長年間(1596)の初めまでその地で経歴を築きました。しかし、仕えていた主君の転封に伴い越前国へ移住しました。彼はやがて、江戸幕府の創設者である徳川家康の三男、松平秀康に見出され、支援を受けました。秀康は江戸時代初期の越前国の藩主でした。 秀康の支援により、初代康継は越前下坂派を確立することができました。そして彼の流派の名声は全国的なものとなりました。 秀康の推挙により、初代康継は徳川将軍家のお抱え鍛冶となりました。これは、彼が将軍家のために専ら刀を鍛えたことを意味します。康継は徳川初代および二代将軍である徳川家康と徳川秀忠に認められました。 初代康継は徳川家康より「康」の字を賜り、銘を改めました。彼はまた、茎に葵紋(徳川家の家紋)を銘打つことを許されました。この流派は江戸時代を通じて繁栄し、多くの熟練した弟子を育成しました。貞国は、越前国に居住した多くの刀工の中でも最も有名な弟子の一人でした。 越前国について 越前国は、鋭い切れ味を持つ実用的な設計の刀を鍛造することで有名でした。徳川氏による江戸幕府(1603-1868)は、江戸時代を通じてこの国の刀工に多くの刀を発注しました。越前国には、日本刀の五箇伝の一つとして知られる美濃伝の産地である美濃国(岐阜県)を出身とする刀工が数多く存在しました。 この刀は、NBTHK(日本美術刀剣保存協会)により保存刀剣として鑑定されています。 *この刀身には、いくつかの鍛え傷と黒錆があることにご留意ください。 鑑定書 令和7年(2025)2月21日にこの刀を鑑定しました。日本社会にとって保存する価値のある刀として、保存刀剣に鑑定されました。





















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下坂 · 越前 · 1596-1615頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位23%
現在1点販売中
肥後大掾藤原貞国と銘し慶長十年の年紀を切る短刀が第六十回重要刀剣に指定されている。それまで説明書が知る年紀作は慶長十四年紀の短刀のみで、これによって慶長新刀期の活躍が窺われてきた。貞国は越前下坂一派の刀工で、説明書は「康継と最も密接な関係にあった下坂一門の刀工」[[c:1]]と位置づける。その近さはかつて文字通りに受け取られた。江戸時代以来の刀剣書及び銘鑑には殆ど記載がなく、たまたま載せるものも肥後大掾の銘振りの近似から康継同人とするが、今日では両者は別人と解される。銘は肥後大掾藤原貞国、裏に越前住と切るものが多い。本間による御物台帳は若打と思われるものに「越前国下坂貞国」の銘があると記す。肥後大掾藤原下坂・越前住と銘する小脇指は初期作と断じられ、慶長初年に下坂銘で肥後大掾を冠したのは後の康継と貞国と兼法の三人であったという。
その手は何よりも直刃の手である。説明書は「直刃を得意として乱刃の作は殆んどなく」[[c:2]]と記し、また「直刃調のものが多く、僅かにほつれ、小足が入り、地刃共に沸も穏やかな感がある」[[c:3]]とする。刃には僅かに小湾れ・小互の目が交じり、沸は小づき静かで、匂口は冴えるよりも沈み、細い砂流しと折々の金筋を見る。帽子は直ぐに先小丸へ掃きかけ、時に長く焼下げ、また先尖りごころとなる。本間の御物台帳所載の刀は広直刃調に浅く湾れて小乱を交え、総体に匂口沈みごころとなる。台帳はその作を、殆ど皆直刃調の出来を得意とし、短刀には互の目の出来もあり、短刀の作が多く刀は少なく、稀に薙刀もあるとまとめる。
地鉄こそ説明書が康継と分かつところである。康継に比して「黒ずんだ杢肌などは少なく、概ね鍛えがつみ」[[c:4]]と記される。板目が流れ、杢を交え、鎬地は柾がかり、肌はやや立って地沸がよくつく。ある説明は端的に「板目が流れているものが常で」[[c:5]]とする。上作では常の越前物に比べよくつんで精緻な鍛えを呈し、説明書はこれをこの工の見どころとする。慶長十年紀の短刀では地鉄が黒味を帯びるものの、その精緻な点にやはりこの見どころが現れる。
数口の脇指は直刃の常を破り、説明書はこれを作域の広さの証とする。一口は身幅広く寸延びた片切刃造の脇指で、精美な地に焼の低い小のたれを基調に互の目を交え、小足入り小沸つき、細かに金筋・砂流しがかかり、貞国が「古作の貞宗や信国に範をとった」[[c:6]]作で渋い味わいを示すと読まれる。今一口は常を全く離れる。身幅一段と広く寸延びた平造の脇指に、焼幅広めの丁子乱れを主調に互の目・頭の丸い互の目・尖りごころの刃を交え、足長く頻りに入り、沸厚く荒目の沸を交え、砂流し・沸筋さかんにかかる。説明書はこれを「一派の中でも最も丁子の目立つ日向大掾貞次」[[c:7]]に相通じるとし、直刃調の穏やかな作域を通例とする貞国がかくも華やかな丁子乱れを焼く点に注目する。二口はともに「貞国会心の一口」とされ、後者は「同作中抜群の出来映え」[[c:8]]を示すという。他の作はより常に近く、短刀には浅いのたれに小互の目を交えたものがある。
彫物は第三の筋である。刀身には深く力強い越前彫が施され、説明書は「越前彫独得のもの」[[c:9]]とする。櫃中の岩上不動、倶利迦羅、護摩箸、素剣などで、下坂銘の初期作の岩上不動について説明書は越前彫の典型であり恐らく自身彫であろうとする。本間の御物台帳はさらに、鶴亀の御目出度彫と枝梅を施した短刀を載せ、梅竹等を得意とするのは越前彫の源泉であろうかとし、初代康継の作刀に初め貞国が彫を施したとの所伝もあながち故なしとせず、恐らく康継と不和となり終生越前に終ったものであろうと記す。師伝・弟子は明らかでない。
藤代の評価は上作。指定を受けた作は十一口で、すべて在銘、重要刀剣九口と本間の御物台帳所載の短刀・刀の二口である。重要刀剣を超える指定はなく、伝来や所蔵機関の記録もない。幾口かは細鏨の長銘を備え、藤原を入れない六字銘の刀は珍しいとされる。重要刀剣の一口は薙刀で、説明書は薙刀もまま現存するが生ぶ茎のものは特に少ないとする。収集家にとって貞国は名高い名ではなく、丹念で個性的な名である。その作が市に現れるのは折々のことで、重要刀剣級の短刀ないし脇指が時に出るのみであり、在銘かつ年紀のある一口こそ待つに値する。
貞國の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在37点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。 詳しく見る →
桃山時代
三人の天下人が戦国の世紀を終わらせ、刀は新しい秩序の道具となった。1588年の刀狩は刀を武士の標章とし、名刀は条約のごとく家々の間を行き交い、鑑定は以後この境で古刀と新刀を分かつ。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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