新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
Keicho era (A.D. 1596-1614, Early Edo period) Engraving: "Uchi-hi" shu-urushi nuri on the back face (Ura) 越後守藤原来金道は江戸前期の山城国京の刀工で、伊賀守金道の次弟和泉守来金道の子。慶長五年十二月二十七日に没した(注2)父の跡を継ぎ、越後守を受領。遺作は極めて稀有ながら幅広で鋒の大きく延びた頑健な姿で、ゆったりとした力強い湾れ刃の刀(注3)があり、自身の腕のみを恃みに生きた江戸初期の武士の気質に応えた刀を今に伝えている(注4)。 この槍は越後守来金道の現存珍しい作で、塩首短く、腰元の身幅広く先細く鋭利で、中央の鎬筋が屹然と立ち、笹の葉を想わせる形状から笹穂槍(注5)と称される一筋。差裏中央に大きく掻かれた打樋に魔除けの朱漆が施され、刺突と截断の両用に威力を発揮し得る恐るべき姿。地鉄は小板目肌、刃寄り微かに柾を交えて緻密に錬れて詰み、小粒の地沸厚く付いて鉄色明るく、関映り鮮明に立つ。刃文は浅い湾れに小互の目を交え、小沸ついて刃縁に光強く、ほつれ、喰違を交えて金線・砂流し盛んにかかり、美濃出身らしい活発な働きが現れ、刃中も匂で澄む。帽子は焼深く、浅く乱れ込んで僅かに返る。茎の保存状態は良好で、丸みのある、和泉守来金道初代に似た銘字が入念に刻されている。出来頗る優れ、伊賀守金道、丹波守吉道、越中守正俊ら名手に比しても全く遜色のない出来栄えである。 注4藤代義雄氏は『日本刀工辞典』で、「越後守は十口程あり、中に慶長九年の作がある」、遺作は「慶長から元和頃と思はれる」(『名刀図鑑』第四十九輯第三四七号)と述べている。








新刀 · 山城 · 1604-1660頃
現在2点販売中
来金道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在71点販売中
三品派は、美濃国関の兼道を源流とし、その子らが京へ上って興した新刀の一門である。説明書は、兼道の四子すなわち長兄伊賀守金道、来金道、丹波守吉道、末弟越中守正俊が父と共に美濃より上京し、西洞院夷川に住して三品派の名を大いに高めたと記す。長兄金道は京五鍛冶の頭領にして、その家は刀工の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えて幕末に及んだ。やがて一門は京にとどまらず大坂へも枝を張り、京初代丹波守吉道の子が大坂に移って大坂丹波の祖となり、その周囲に大和守吉道が連なり、丹後守兼道のごとく大坂に住して元禄頃に活躍した工も出た。末関の量産地に発しながら、堀川派と並ぶ京新刀の一大勢力に育ち、さらに大坂へと展開した点に、この一門の歩みがある。 作風を貫くのは、工と世代の差を越えて繰り返される三品の共通語法である。地鉄は板目に杢や流れ肌を交えて棟寄りに強く流れ、刃寄りで柾がかって肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入るもので、美濃関の継承を京の作にまで伝える。京の古い手が肌立つ板目を見せるのに対し、大坂の系では小板目をよくつめ清く澄んだ地に転ずる差がある。刃文は美濃由来の互の目と尖り刃を基調に、これを京風に洗練して小のたれの大乱れに展開し、沸が強く時に荒くむら立ち、砂流しさかんに金筋長く入る。最も明快な見どころは帽子で、のたれ込みに先尖って掃きかける三品帽子は一門の標識をなし、末弟正俊にことに顕著である。いま一つの標識が丹波守吉道の創案した簾刃で、湯走り・飛焼・砂流しが幾重にも縞がかって簾の如く焼かれる。金道と正俊が志津風を共に得意として作域広く、吉道はこの簾刃の一手に己を結び、大坂の系はその簾刃を最もよく継いだ。同じ語法のうちに、各工の手が読み分けられる。 収集の観点では、三品派は新刀草創の格と明快な鑑定の勘所をあわせ持つ一門である。先尖って掃きかける三品帽子と、縞がかって平行に焼かれる簾刃の二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、大坂の直ぐで均一の焼出しは京の手と分かつ目印となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、初代伊賀守金道は一派中最も優れた手とされ、初代丹波守吉道は初期新刀屈指の名工に数えられ、末弟正俊は器用さ兄弟中第一と評される。一門の作はおおむね在銘で、銘そのものが時の標識となり、由緒の確かさをもって賞翫される。来歴の知られる作は谷干城の愛刀、佐竹家、織田有楽斎、北野天満宮、皇室、大坂城代青山家の蔵を経て伝わり、一口は京都国立博物館に納まる。最上手の在銘作が市に現れるのは折々のことで容易ではないが、一たび相見えれば、三品派が美濃関より京・大坂へいかに展開したかを語る確かな証となる。 詳しく見る →
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Keicho era (A.D. 1596-1614, Early Edo period) Engraving: "Uchi-hi" shu-urushi nuri on the back face (Ura) 越後守藤原来金道は江戸前期の山城国京の刀工で、伊賀守金道の次弟和泉守来金道の子。慶長五年十二月二十七日に没した(注2)父の跡を継ぎ、越後守を受領。遺作は極めて稀有ながら幅広で鋒の大きく延びた頑健な姿で、ゆったりとした力強い湾れ刃の刀(注3)があり、自身の腕のみを恃みに生きた江戸初期の武士の気質に応えた刀を今に伝えている(注4)。 この槍は越後守来金道の現存珍しい作で、塩首短く、腰元の身幅広く先細く鋭利で、中央の鎬筋が屹然と立ち、笹の葉を想わせる形状から笹穂槍(注5)と称される一筋。差裏中央に大きく掻かれた打樋に魔除けの朱漆が施され、刺突と截断の両用に威力を発揮し得る恐るべき姿。地鉄は小板目肌、刃寄り微かに柾を交えて緻密に錬れて詰み、小粒の地沸厚く付いて鉄色明るく、関映り鮮明に立つ。刃文は浅い湾れに小互の目を交え、小沸ついて刃縁に光強く、ほつれ、喰違を交えて金線・砂流し盛んにかかり、美濃出身らしい活発な働きが現れ、刃中も匂で澄む。帽子は焼深く、浅く乱れ込んで僅かに返る。茎の保存状態は良好で、丸みのある、和泉守来金道初代に似た銘字が入念に刻されている。出来頗る優れ、伊賀守金道、丹波守吉道、越中守正俊ら名手に比しても全く遜色のない出来栄えである。 注4藤代義雄氏は『日本刀工辞典』で、「越後守は十口程あり、中に慶長九年の作がある」、遺作は「慶長から元和頃と思はれる」(『名刀図鑑』第四十九輯第三四七号)と述べている。








新刀 · 山城 · 1604-1660頃
現在2点販売中
来金道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在71点販売中
三品派は、美濃国関の兼道を源流とし、その子らが京へ上って興した新刀の一門である。説明書は、兼道の四子すなわち長兄伊賀守金道、来金道、丹波守吉道、末弟越中守正俊が父と共に美濃より上京し、西洞院夷川に住して三品派の名を大いに高めたと記す。長兄金道は京五鍛冶の頭領にして、その家は刀工の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えて幕末に及んだ。やがて一門は京にとどまらず大坂へも枝を張り、京初代丹波守吉道の子が大坂に移って大坂丹波の祖となり、その周囲に大和守吉道が連なり、丹後守兼道のごとく大坂に住して元禄頃に活躍した工も出た。末関の量産地に発しながら、堀川派と並ぶ京新刀の一大勢力に育ち、さらに大坂へと展開した点に、この一門の歩みがある。 作風を貫くのは、工と世代の差を越えて繰り返される三品の共通語法である。地鉄は板目に杢や流れ肌を交えて棟寄りに強く流れ、刃寄りで柾がかって肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入るもので、美濃関の継承を京の作にまで伝える。京の古い手が肌立つ板目を見せるのに対し、大坂の系では小板目をよくつめ清く澄んだ地に転ずる差がある。刃文は美濃由来の互の目と尖り刃を基調に、これを京風に洗練して小のたれの大乱れに展開し、沸が強く時に荒くむら立ち、砂流しさかんに金筋長く入る。最も明快な見どころは帽子で、のたれ込みに先尖って掃きかける三品帽子は一門の標識をなし、末弟正俊にことに顕著である。いま一つの標識が丹波守吉道の創案した簾刃で、湯走り・飛焼・砂流しが幾重にも縞がかって簾の如く焼かれる。金道と正俊が志津風を共に得意として作域広く、吉道はこの簾刃の一手に己を結び、大坂の系はその簾刃を最もよく継いだ。同じ語法のうちに、各工の手が読み分けられる。 収集の観点では、三品派は新刀草創の格と明快な鑑定の勘所をあわせ持つ一門である。先尖って掃きかける三品帽子と、縞がかって平行に焼かれる簾刃の二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、大坂の直ぐで均一の焼出しは京の手と分かつ目印となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、初代伊賀守金道は一派中最も優れた手とされ、初代丹波守吉道は初期新刀屈指の名工に数えられ、末弟正俊は器用さ兄弟中第一と評される。一門の作はおおむね在銘で、銘そのものが時の標識となり、由緒の確かさをもって賞翫される。来歴の知られる作は谷干城の愛刀、佐竹家、織田有楽斎、北野天満宮、皇室、大坂城代青山家の蔵を経て伝わり、一口は京都国立博物館に納まる。最上手の在銘作が市に現れるのは折々のことで容易ではないが、一たび相見えれば、三品派が美濃関より京・大坂へいかに展開したかを語る確かな証となる。 詳しく見る →
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。