二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
日本刀 備州長船師光 短刀(特別保存刀剣鑑定書付属) 【解説】 本作は、応安元年(1368年:南北朝時代中期)十二月に備州長船師光(びしゅうおさふねもろみつ)によって制作された一振りです。師光は倫光の子であり、後に名工として知られる盛光の父にあたります。「備州」とは現在の岡山県から広島県東部にまたがる備前・備中・備後の三国の総称であり、長船は備前国に拠点を置いた日本刀史上最大の門流です。師光は南北朝時代中期から後期にかけて活躍しました。 師光は「小反(こぞり)」系鍛冶の代表格として位置づけられています。小反とは、南北朝時代の備前長船において、兼光などの主流派とは別に独自の作風を展開した一群を指します。師光はその中でも筆頭に挙げられる名工であり、後に息子である盛光や康光らと共に、応永年間に最も繁栄した三人の名工「応永の三光」として称えられる礎を築きました。 師光が活躍した南北朝時代は、朝廷が南北に分かれ戦乱が続いた激動の時代でした。多くの武士が戦場へ赴く中、師光ら小反系の鍛冶たちは、実戦に耐えうる堅牢さと高い芸術性を兼ね備えた刀剣を数多く打ち出しました。 【備前長船派の歴史】 長船派は鎌倉時代中期の光忠を始祖と伝えます。備前国の中でも最大の規模を誇り、時の権力者や名だたる武将から多くの注文を受けました。彼らの作品は「長船物」として武士の間で絶大な信頼と人気を博しました。 長船派には、長光・真長・景光の「長船三作」や、長光・兼光・長義・元重の「長船四天王」など、日本刀史に名を刻む巨匠が輩出しています。 備前国が刀剣制作の聖地となった背景には、中国山地から産出される良質な原料(砂鉄)に加え、吉井川の豊かな水と炭が容易に確保できるという地理的優位性がありました。この恵まれた環境により、平安時代後期の「古備前」から始まり、鎌倉時代以降の長船派の隆盛へと繋がる、洗練された備前伝の技術が継承されていったのです。 本刀は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは真作であることはもちろん、保存状態が極めて良好で、かつ美術的価値が高い名品であることを証明するものです。 【刀身】 長さ(Nagasa):27.5 cm 反り(Sori):0.1 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造。 地鉄(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様。 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分。 日本の刀工は、柄内での赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この経年による錆色(朽ち込み)は、専門家が制作年代を特定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などで構成される外装。 波千鳥図(Nami Chidori)


























Bizen Osafune, Kozori group · 備前 · 1375-1390頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在1点販売中
師光は南北朝時代末期の備前長船の刀工で、説明書は銘鑑にこれを倫光の子、応永備前の盛光の父と伝える。在銘年紀の太刀は永和・応安・至徳から永徳・明徳に及び、現存する諸作を初代と読み、これを継いだ応永年紀の師光より上る古い手とする。本工は説明書が小反、すなわち小反り物と総称する南北朝末期長船の刀工群に属し、大工房の周縁に働いたその手の一人として、「南北朝後期の、所謂小反り物と呼ばれる刀工達の、代表的な一人である」[[c:1]]と評される。
本工の典型は浅い小のたれを本位とした小模様の乱れである。その静かな地に小互の目・連れた互の目・尖りごころの刃・僅かの丁子を交え、総じて小模様にこずみ、小足・葉入り、匂主調に小沸つき細かな砂流しかかり、上手には金筋を交える。説明書が繰り返し読むのは抑制である。すなわち「刃文は盛光、康光に比して地味であり、いわゆる小反りの作域のものである」[[c:2]]とし、同じ備前の趣をより大きく華やかに焼く子の盛光や康光に比して地味とする。寸法こそが見どころである。説明書はやや磨上げられた年紀の太刀を「いかにも師光の持味を発揮した出来の宜しい一口といえよう」[[c:3]]と評する。
地鉄は板目で、刃寄り流れて肌立ち、杢を交え、上手には肌目細かに立ってつむ。地沸つき地景頻りに入り地斑を交え、淡い映りまたは明瞭な乱れ映りが立ち、小振りの永徳の太刀には直ぐの映りが立つ。説明書はこれを地味な刃文の下に備前伝を示す地と読み、明徳の太刀には「青黒い色調に冴えた地鉄が強く、総じて優れた出来の一口である」[[c:4]]と評する。姿は古調で、腰反りに踏張りつき、身幅の割に重ねやや厚く、古い作では中鋒猪首ごころにつまり、いずれも南北朝末期の時代相を示す。帽子は乱れ込んで尖りごころ、または小丸となり、先掃きかける。多くは棒樋を掻き、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を加えるものもある。
同作は三つの作域で無理なく読める。本位は前述の地味な小模様の乱れで、説明書が小反りの典型作と呼ぶ手である。今一つの作域は最も変化に富み、至徳年紀の太刀に見られる。小丁子に小互の目・小のたれ・尖りごころの刃を交え、処々逆がかり、小足よく入り匂口ふっくらとし、説明書はこれを同作中より変化に富みながらも完成度の高い一作と読む。三つめは小反の常を越えて作域がひろがる。一口の在銘の太刀では互の目に丁子を交えて乱れの腰がひらき、出来口が華やかとなる。説明書はまず「小反り物の作風は総体に小づんだ乱れ刃をあらわすものが一般的である」[[c:5]]とし、この太刀は「焼きに高低のある華やかな出来口を示しており」[[c:6]]、「宛ら応永備前を想わせる作風を見せている」[[c:7]]と読む。本工はまさにこの敷居に位置する。
本工の特色は他との対比よりも自らの作に読むのがよい。肌立った板目に立つ明るい乱れ映り、小互の目・僅かの丁子を交えた小模様の小のたれ、乱れ込みの帽子は本工を備前伝に置き、総体の小ささと抑制が南北朝最盛期の長船本流や、より大模様な後継と分かつ。説明書はほぼ各項にその系譜を織り込み、「銘鑑に倫光子、盛光の父とあり」[[c:8]]と記して本工を一門史の蝶番、南北朝長船の静かな終章にして応永備前の最初の予兆を一手に担うものとする。
師光は殆ど在銘年紀の太刀として遺り、その七口が重要刀剣に指定される。国宝・重要文化財はなく、その記録は美術館や社寺に伝わる文化財ではなく重要刀剣の級に及ぶ。藤代は上々作とする。遺品の価値はその美しさと同じく資料的な重みにある。生ぶ・有銘・年紀の作は項を追って小反一類および応永の敷居の備前鍛冶を知る好資料と読まれ、珍しい永徳・至徳の年紀は貴重とされ、説明書は至徳の太刀を「とりわけ至徳年紀が貴重な同工の優品である」[[c:9]]と評する。伝来は乏しく率直に記すべきで、所伝の知れるもののうち、姿・地刃ともに健全な優品の一口は「庄内酒井家の旧蔵品である」[[c:10]]。蒐集家にとって小反の師光は国宝のように手の届かぬものではなく、その指定作は公の手に収まるより重要刀剣の級にあるが、初代の在銘年紀の太刀が市場に現れるのは稀で、根気を要し、現れればそれは南北朝末期長船の静かな里程標となる。
師光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在26点販売中
小反は、南北朝時代末期から室町時代初期にかけて備前長船の地に働いた一群の刀工を、血脈ではなく除外によって括った呼称である。すなわち兼光一門、長義、元重、大宮一門といった当時の長船の主立った系統のいずれにも直接の師弟関係を結ばぬ周縁の手を、まとめて一名のもとに集めたものであり、その名の意味するところは今日なお漠然としていると本会は率直に記す。秀光、家助、成家、家守、師光、守助らがこれに数えられ、銘鑑はおのおのを数代に立てて初代を鎌倉後期から建武・暦応の頃に置くが、確たる初代作を経眼せず、現存の有銘作はおおむね文和・貞治から永徳・明徳を経て応永一桁代に及ぶ。それゆえ各遺例は一手に確定的に帰すよりも、作風と年紀によって読まれるのを常とする。師光が倫光の子にして応永備前の盛光の父と伝えられ、家助が畠田派を承けて応永備前の一角をなすように、この一群は長船嫡流の華やかな本流とその次代の応永備前との間に、静かな周縁の地帯をなして横たわる。 この一派を貫く手は小模様の乱れである。兼光一門が太く円い互の目を焼くのに対し、小反の工はおおむね同じ趣を小さくこずんだ刃に収め、小のたれを本位として小互の目を連れごころに焼き、これに尖り刃、角ばる刃、腰の開いた互の目を交え、処々逆ごころを見せて、総じて小さくこずむ。足・葉よく入り、匂を主調にわずかに小沸つき、金筋・砂流しが細かに働き、丁子を交えてもなお控えめにとどまる。地鉄は板目に杢を交えて流れごころとなり、肌やや立って地沸細かにつき、地景が黒く沈み、時に地斑を交え、その上に淡い、あるいは鮮明な乱れ映りが立つ。短刀・平造の作では棒映り、直ぐ状の映りとなるものも見え、いずれにせよこの映りが、同時代の相州風の手から一派を分かち、備前の地に繋ぎ止める最も確かな標となる。帽子は刃文に従って乱れ込み尖りごころに掃きかけ、あるいは小丸に結ぶ。棒樋を掻き、梵字、護摩箸、倶利迦羅などを彫る作もある。一派の常を越えて、師光の至徳の太刀のように腰の開いた互の目に高低を見せて華やかに乱れ、応永備前を予兆させる作もあり、家守の応永の太刀のごとく重ね厚く先反りを加えて次代の姿に近づくものもある。 収集の観点から小反の物が求められるのは、何よりそれが資料として明瞭であるからである。鑑定の勘所は二つの敷居を分かつことにある。一つは兼光本流との別で、模様の小さくこずむ点と、やや控えめな作位とによってこれを読み、いま一つは応永備前との別で、腰の開いた互の目と棒映りのうちに次代の萌芽を見ながら、なお南北朝の古調の姿と抑えた焼きにとどまる点をもって分かつ。主要な工の格はおのずから別れ、師光は上々作に位し、秀光、家助、成家、守助、家守らは中上作の位を占める。在銘の作はおおむね生ぶで年紀を備えた太刀として遺り、成家のように大磨上無銘の刀によって主に知られる工もあるが、いずれの場合も、年紀の確かな南北朝の備前として頗る貴重とされる。伝来は概して薄いが確かで、黒田家、加賀前田家、庄内酒井家、皇室の手を経た作や、林原美術館、東京国立博物館、京都国立博物館、春日大社に伝わる作が知られ、その多くは伝持されて市場に現れることは稀である。在銘有年紀の小反物が世に出るのは折に触れてに過ぎず、根気を要するが、現れればそれは、長船派が南北朝の世をいかに閉じ、応永の再興へといかに身を運んだかを、一年一年読みうる確かな文書となる。 詳しく見る →
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 備州長船師光 短刀(特別保存刀剣鑑定書付属) 【解説】 本作は、応安元年(1368年:南北朝時代中期)十二月に備州長船師光(びしゅうおさふねもろみつ)によって制作された一振りです。師光は倫光の子であり、後に名工として知られる盛光の父にあたります。「備州」とは現在の岡山県から広島県東部にまたがる備前・備中・備後の三国の総称であり、長船は備前国に拠点を置いた日本刀史上最大の門流です。師光は南北朝時代中期から後期にかけて活躍しました。 師光は「小反(こぞり)」系鍛冶の代表格として位置づけられています。小反とは、南北朝時代の備前長船において、兼光などの主流派とは別に独自の作風を展開した一群を指します。師光はその中でも筆頭に挙げられる名工であり、後に息子である盛光や康光らと共に、応永年間に最も繁栄した三人の名工「応永の三光」として称えられる礎を築きました。 師光が活躍した南北朝時代は、朝廷が南北に分かれ戦乱が続いた激動の時代でした。多くの武士が戦場へ赴く中、師光ら小反系の鍛冶たちは、実戦に耐えうる堅牢さと高い芸術性を兼ね備えた刀剣を数多く打ち出しました。 【備前長船派の歴史】 長船派は鎌倉時代中期の光忠を始祖と伝えます。備前国の中でも最大の規模を誇り、時の権力者や名だたる武将から多くの注文を受けました。彼らの作品は「長船物」として武士の間で絶大な信頼と人気を博しました。 長船派には、長光・真長・景光の「長船三作」や、長光・兼光・長義・元重の「長船四天王」など、日本刀史に名を刻む巨匠が輩出しています。 備前国が刀剣制作の聖地となった背景には、中国山地から産出される良質な原料(砂鉄)に加え、吉井川の豊かな水と炭が容易に確保できるという地理的優位性がありました。この恵まれた環境により、平安時代後期の「古備前」から始まり、鎌倉時代以降の長船派の隆盛へと繋がる、洗練された備前伝の技術が継承されていったのです。 本刀は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは真作であることはもちろん、保存状態が極めて良好で、かつ美術的価値が高い名品であることを証明するものです。 【刀身】 長さ(Nagasa):27.5 cm 反り(Sori):0.1 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造。 地鉄(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様。 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分。 日本の刀工は、柄内での赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この経年による錆色(朽ち込み)は、専門家が制作年代を特定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などで構成される外装。 波千鳥図(Nami Chidori)


























Bizen Osafune, Kozori group · 備前 · 1375-1390頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在1点販売中
師光は南北朝時代末期の備前長船の刀工で、説明書は銘鑑にこれを倫光の子、応永備前の盛光の父と伝える。在銘年紀の太刀は永和・応安・至徳から永徳・明徳に及び、現存する諸作を初代と読み、これを継いだ応永年紀の師光より上る古い手とする。本工は説明書が小反、すなわち小反り物と総称する南北朝末期長船の刀工群に属し、大工房の周縁に働いたその手の一人として、「南北朝後期の、所謂小反り物と呼ばれる刀工達の、代表的な一人である」[[c:1]]と評される。
本工の典型は浅い小のたれを本位とした小模様の乱れである。その静かな地に小互の目・連れた互の目・尖りごころの刃・僅かの丁子を交え、総じて小模様にこずみ、小足・葉入り、匂主調に小沸つき細かな砂流しかかり、上手には金筋を交える。説明書が繰り返し読むのは抑制である。すなわち「刃文は盛光、康光に比して地味であり、いわゆる小反りの作域のものである」[[c:2]]とし、同じ備前の趣をより大きく華やかに焼く子の盛光や康光に比して地味とする。寸法こそが見どころである。説明書はやや磨上げられた年紀の太刀を「いかにも師光の持味を発揮した出来の宜しい一口といえよう」[[c:3]]と評する。
地鉄は板目で、刃寄り流れて肌立ち、杢を交え、上手には肌目細かに立ってつむ。地沸つき地景頻りに入り地斑を交え、淡い映りまたは明瞭な乱れ映りが立ち、小振りの永徳の太刀には直ぐの映りが立つ。説明書はこれを地味な刃文の下に備前伝を示す地と読み、明徳の太刀には「青黒い色調に冴えた地鉄が強く、総じて優れた出来の一口である」[[c:4]]と評する。姿は古調で、腰反りに踏張りつき、身幅の割に重ねやや厚く、古い作では中鋒猪首ごころにつまり、いずれも南北朝末期の時代相を示す。帽子は乱れ込んで尖りごころ、または小丸となり、先掃きかける。多くは棒樋を掻き、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を加えるものもある。
同作は三つの作域で無理なく読める。本位は前述の地味な小模様の乱れで、説明書が小反りの典型作と呼ぶ手である。今一つの作域は最も変化に富み、至徳年紀の太刀に見られる。小丁子に小互の目・小のたれ・尖りごころの刃を交え、処々逆がかり、小足よく入り匂口ふっくらとし、説明書はこれを同作中より変化に富みながらも完成度の高い一作と読む。三つめは小反の常を越えて作域がひろがる。一口の在銘の太刀では互の目に丁子を交えて乱れの腰がひらき、出来口が華やかとなる。説明書はまず「小反り物の作風は総体に小づんだ乱れ刃をあらわすものが一般的である」[[c:5]]とし、この太刀は「焼きに高低のある華やかな出来口を示しており」[[c:6]]、「宛ら応永備前を想わせる作風を見せている」[[c:7]]と読む。本工はまさにこの敷居に位置する。
本工の特色は他との対比よりも自らの作に読むのがよい。肌立った板目に立つ明るい乱れ映り、小互の目・僅かの丁子を交えた小模様の小のたれ、乱れ込みの帽子は本工を備前伝に置き、総体の小ささと抑制が南北朝最盛期の長船本流や、より大模様な後継と分かつ。説明書はほぼ各項にその系譜を織り込み、「銘鑑に倫光子、盛光の父とあり」[[c:8]]と記して本工を一門史の蝶番、南北朝長船の静かな終章にして応永備前の最初の予兆を一手に担うものとする。
師光は殆ど在銘年紀の太刀として遺り、その七口が重要刀剣に指定される。国宝・重要文化財はなく、その記録は美術館や社寺に伝わる文化財ではなく重要刀剣の級に及ぶ。藤代は上々作とする。遺品の価値はその美しさと同じく資料的な重みにある。生ぶ・有銘・年紀の作は項を追って小反一類および応永の敷居の備前鍛冶を知る好資料と読まれ、珍しい永徳・至徳の年紀は貴重とされ、説明書は至徳の太刀を「とりわけ至徳年紀が貴重な同工の優品である」[[c:9]]と評する。伝来は乏しく率直に記すべきで、所伝の知れるもののうち、姿・地刃ともに健全な優品の一口は「庄内酒井家の旧蔵品である」[[c:10]]。蒐集家にとって小反の師光は国宝のように手の届かぬものではなく、その指定作は公の手に収まるより重要刀剣の級にあるが、初代の在銘年紀の太刀が市場に現れるのは稀で、根気を要し、現れればそれは南北朝末期長船の静かな里程標となる。
師光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在26点販売中
小反は、南北朝時代末期から室町時代初期にかけて備前長船の地に働いた一群の刀工を、血脈ではなく除外によって括った呼称である。すなわち兼光一門、長義、元重、大宮一門といった当時の長船の主立った系統のいずれにも直接の師弟関係を結ばぬ周縁の手を、まとめて一名のもとに集めたものであり、その名の意味するところは今日なお漠然としていると本会は率直に記す。秀光、家助、成家、家守、師光、守助らがこれに数えられ、銘鑑はおのおのを数代に立てて初代を鎌倉後期から建武・暦応の頃に置くが、確たる初代作を経眼せず、現存の有銘作はおおむね文和・貞治から永徳・明徳を経て応永一桁代に及ぶ。それゆえ各遺例は一手に確定的に帰すよりも、作風と年紀によって読まれるのを常とする。師光が倫光の子にして応永備前の盛光の父と伝えられ、家助が畠田派を承けて応永備前の一角をなすように、この一群は長船嫡流の華やかな本流とその次代の応永備前との間に、静かな周縁の地帯をなして横たわる。 この一派を貫く手は小模様の乱れである。兼光一門が太く円い互の目を焼くのに対し、小反の工はおおむね同じ趣を小さくこずんだ刃に収め、小のたれを本位として小互の目を連れごころに焼き、これに尖り刃、角ばる刃、腰の開いた互の目を交え、処々逆ごころを見せて、総じて小さくこずむ。足・葉よく入り、匂を主調にわずかに小沸つき、金筋・砂流しが細かに働き、丁子を交えてもなお控えめにとどまる。地鉄は板目に杢を交えて流れごころとなり、肌やや立って地沸細かにつき、地景が黒く沈み、時に地斑を交え、その上に淡い、あるいは鮮明な乱れ映りが立つ。短刀・平造の作では棒映り、直ぐ状の映りとなるものも見え、いずれにせよこの映りが、同時代の相州風の手から一派を分かち、備前の地に繋ぎ止める最も確かな標となる。帽子は刃文に従って乱れ込み尖りごころに掃きかけ、あるいは小丸に結ぶ。棒樋を掻き、梵字、護摩箸、倶利迦羅などを彫る作もある。一派の常を越えて、師光の至徳の太刀のように腰の開いた互の目に高低を見せて華やかに乱れ、応永備前を予兆させる作もあり、家守の応永の太刀のごとく重ね厚く先反りを加えて次代の姿に近づくものもある。 収集の観点から小反の物が求められるのは、何よりそれが資料として明瞭であるからである。鑑定の勘所は二つの敷居を分かつことにある。一つは兼光本流との別で、模様の小さくこずむ点と、やや控えめな作位とによってこれを読み、いま一つは応永備前との別で、腰の開いた互の目と棒映りのうちに次代の萌芽を見ながら、なお南北朝の古調の姿と抑えた焼きにとどまる点をもって分かつ。主要な工の格はおのずから別れ、師光は上々作に位し、秀光、家助、成家、守助、家守らは中上作の位を占める。在銘の作はおおむね生ぶで年紀を備えた太刀として遺り、成家のように大磨上無銘の刀によって主に知られる工もあるが、いずれの場合も、年紀の確かな南北朝の備前として頗る貴重とされる。伝来は概して薄いが確かで、黒田家、加賀前田家、庄内酒井家、皇室の手を経た作や、林原美術館、東京国立博物館、京都国立博物館、春日大社に伝わる作が知られ、その多くは伝持されて市場に現れることは稀である。在銘有年紀の小反物が世に出るのは折に触れてに過ぎず、根気を要するが、現れればそれは、長船派が南北朝の世をいかに閉じ、応永の再興へといかに身を運んだかを、一年一年読みうる確かな文書となる。 詳しく見る →
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.