説明

骨董日本刀 脇差 銘:近江守忠綱(元禄十二年) 特別保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は元禄十二年(1699年:江戸時代中期)に、粟田口近江守忠綱によって打たれた一振りです。忠綱の名は数代続きますが、その活躍時期から本作は二代目忠綱の手によるものと推測されます。二代忠綱は江戸中期(17世紀後半)に活躍し、津田助広、井上真改と並び「大坂新刀の三傑」と称される、大坂を代表する最高峰の銘工の一人です。 二代忠綱は正保元年(1644年)、初代忠綱の長男として生まれました。初代は鎌倉時代初期の名匠・粟田口国綱の後裔を称し、播磨に生まれ、伊勢の後山城などで作刀した後、摂津(大坂)へと移住しました。 二代忠綱の本名は浅井万太夫といい、歴代忠綱の中でも最も技量が高く、高名であったと伝えられています。彼は多様な刃文を焼き上げる卓越した技術のみならず、刀身彫刻の達人としても知られています。 初期には「忠国」と銘じ、現存作から延宝元年(1672年)頃より作刀を開始し、享保元年(1716年)頃、約80歳まで現役を貫いたことが伺えます。延宝年間に「近江守」を受領し、元禄二年(1689年)以降は「一竿子忠綱」と号しました。 また、元禄初期には「綱」の字に「縄」を用いていましたが、元禄中期以降は「綱」の字を用いるようになります。約50年にわたる作刀人生において、その作風は常に高い水準を維持しました。 忠綱の作品には重要文化財に指定されているものもあり、格付けでは「新刀上々作」にして「良業物」に列せられています。 また、二代忠綱には歴史的に興味深い逸話が残されています。 天明四年(1784年)三月二十四日、江戸城内において旗本・佐野善左衛門が、時の権力者・田沼意次の嫡男である田沼意知を襲撃しました。この時、佐野が用いたのが二代忠綱の脇差であったと伝えられています。意知はこの傷が元で没し、佐野は切腹を命じられました。 皮肉にもこの事件後、高騰していた米相場が劇的に下落し、困窮していた民衆は佐野を「世直し大明神」と崇め、その佩刀であった忠綱の名声も一気に高まりました。江戸時代、忠綱の刀を手にすることができたのは、ごく限られた身分の高い武士のみであったと言われています。 本作は日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術的価値の高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※刀身には僅かな鍛え傷および極小の欠けが見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身諸元】 長さ(Nagasa):45.15 cm 反り(Sori):1.21 cm 刃文(Hamon):焼入れによって生じる刃先の結晶構造 地鉄(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):刀身の柄に収まる銘が切られた部位 (※日本刀の茎には、腐食を防ぐため当時の黒錆がそのまま残されています)

Antique Japanese Sword Wakizashi Signed by Omi no Kami Tadatsuna NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate
Tokuho

Antique Japanese Sword Wakizashi Signed by Omi no Kami Tadatsuna NBTHK Tokubetsu Hozon Certificate

脇差

$9,115

世界81社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ

仕様

長さ

45.15 cm

反り

1.21 cm

流派について

Osaka Shinto School大坂新刀派

大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。

刀剣商

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