元徳二年(一三三〇)、直次は細身で腰反りの高い太刀に「備中国住左兵衛尉直次作」と長銘を切り、鎬地に年紀を併記した。説明書はこの任官銘と年紀を「同作中でも貴重な資料」と記す。直次は備中国青江派の刀工である。十一世紀初頭の『新猿楽記』が諸国の名産に「備中ノ刀」を挙げ、その高い評価を受け継いだ青江派は高梁川下流域を中心に栄えた。鎌倉中期頃までの作を古青江、それ以降南北朝期にかけてのものを青江と汎称する。説明書は「銘鑑にその活躍期を嘉暦頃としており」と記し、左衛門尉・左兵衛尉を名乗り、吉次らと共に鎌倉末期より南北朝初期にかけて同派を代表する良工の一人に数える。経眼する年紀は「元徳が古く、貞和・観応に亙って」おり、間に正慶・建武・暦応が立ち、元徳・建武の作には左兵衛尉を冠する。
作風の基調はこの期の青江の直刃である。「直刃を基調としたものが多い」とされ、細直刃・中直刃が極く浅くのたれ、小互の目を交え、小足・逆足・葉が入り、匂口が締まって小沸がつき、明るく冴える。ある太刀については「地刃共に明るく冴えわたっている」と称揚される。青江の逆ごころは丁子乱れではなく、この静かな直刃の上に乗る。逆足は暦応年紀の短刀から伝左兵衛尉銘の大太刀の物打まで繰り返し現れ、暦応の短刀には珍しい鼠足も入る。同派のもう一人の南北朝の名手次直に比べ、細く締まった直刃を常とする点が直次の見どころである。刃中の働きは控えめながら上質で、貞和年紀の太刀には金筋がかかり、元徳二年の太刀には細かな砂流しに打のけ・湯走りが添う。
鍛えは備中そのものである。小板目がよくつんで杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、地斑と澄肌をしきりに交え、淡く映りが立つ。乱れ映りのものも刃寄りの直ぐ状の映りのものもあり、身幅の広い太刀には暗帯状の地斑映りが立つ。第四十七回重要の二字銘短刀について、説明書は「地沸を微塵に厚く敷き、地景が細かに入り、よく錬れてつんだ鍛えが一段と優れており」と評する。帽子は直ぐに小丸、または先尖りごころに返り、僅かに掃きかけるものがある。浅く先が尖りごころとなる帽子は「見落してならぬ」此の期の同派の「大切な見どころの一つ」と明記される。
在銘・年紀の中核は驚くほど一貫している。短刀は平造・三ツ棟、重ね健全で反りは殆どなく、内反りのものもある。建武二年紀の短刀は身幅広く寸延びごころとなり、裏に「南無観世音」の五字を刻む。暦応年紀の短刀は裏に護摩箸を彫り、二つの指定記録の双方で「同作中の出色の出来」と判じられる。生ぶの短刀の茎は振袖となり、「同派の見どころである大筋違の鑢が鮮明に残り」、太鏨で打込みの鋭い長銘は「古青江の伝統を継承している」とされる。書下し銘の太刀も二口あり、伝左兵衛尉銘の太刀は同工には珍しい刀銘に切られている。代別については、南北朝期の青江物が一般に匂出来であるのに対し貞和年紀の太刀は小沸がよくつき「鎌倉期の同派の作に近い」とされ、銘鑑は「暦応・延文年紀のものを二代としており」、これによれば貞和紀の太刀も二代となるが、指定記録は概ね鎌倉末〜南北朝初期の代表工一人として扱う。
いまひとつの作域は本阿弥の極めの上に立つ。昭和十四〜二十二年に重要美術品となった大磨上無銘の刀三口は、いずれも「身幅広く大切先の豪壮な姿である」南北朝の体配を示し、刃文は互の目勝ちに逆丁子・小乱を交える。光温は「金象嵌銘直次磨上之本阿」と金象嵌を施し、光室は尾張徳川家の刀を直次と極めた。正平十八年紀、村橋長五のために打たれた脇指は「華やかな逆丁子刃の出来がよく」、朽ち込んだ銘は直次と伝えられる。同派の流れの中で、小沸の残る静かで明るい直刃は、匂出来の冴えた直刃と特色ある逆丁子乱れを見せる南北朝最盛期の直前に立ち、無銘極めの豪壮な作はその作域に接する。両期を橋渡しする位置こそ直次である。
公の指定を受けた作は十五口を数える。重要文化財二口(太刀と薙刀)、特別重要刀剣三口、重要刀剣七口、重要美術品三口で、特重・重刀の級に十口が立つ。十五口のうち十二口が在銘であり、その名は在銘・年紀の作に錨を下ろしている。伝来は徳川家を貫く。黎明会の刀は「尾張徳川家九代宗睦の指料である」と記されて徳川黎明会に伝わり、金象嵌の刀は認定時徳川家達の所持、本阿弥澄雄旧蔵の一口は現在佐野美術館の所蔵となる。所在の知られるものは徳川美術館・京都国立博物館・佐野美術館に蔵される。重要文化財の二口は文化財として永く護られて市場に出ることはなく、蒐集家が現実に見えうるのは特別重要・重要の級の十口であり、在銘年紀の直次が市に現れることは稀である。