宝永七年(一七一〇)紀の脇指、銘「以南蛮鉄作 不動国行写刳之」が、本会が筑前信国派中とくに技価が高いとする信国重包の活躍を画する。同工は信国吉包の子で、延宝元年に生まれ、通称を原田助六、また助左衛門といい、福岡で黒田家の抱え工として作刀した。その系統は西下した京信国派の筑前の一派で、慶長頃より明治初年に至るまで黒田家の抱え工として栄え、説明はその代表者を吉貞・吉政・吉次・吉包・重包と挙げ、その中で「重包は同派中、とくに技価が高く」と記す。享保六年、四十九歳の時、八代将軍吉宗に召されて江戸に上り、浜御殿で薩摩の主水正正清・一平安代らと共に鍛刀し、その技を認められて一葉葵紋を茎に切ることを許され、帰国後に正包と改銘し、享保十三年五十六歳で歿した。
本領は、よく練れた板目に焼く華やかな丁子乱れである。第三十一回の大小では、鍛えが強く流れて柾となり杢を交え、地沸つき、地景入り、淡く乱れ映りが立つ。これに焼幅広く、丁子乱れに小丁子・小互の目を交え、足・葉がよく入って華やかとなり、沸つき、細かな金筋・砂流しがかかる。かくも華やかな刃文は、説明によれば「一見石堂一派の上工作を思わせる」が、鑑別の境は直ちに引かれる。石堂に比して地沸・地景がやや顕著で、刃中は沸づき、金筋・砂流しが目立つ相違があり、まさにそこに「ここに重包の特色もあらわれている」と結ばれる。帽子は乱れ込んで小丸、裏はやや大丸風となり掃きかける。
その分かれ目を支えるのが地鉄である。板目で、時に柾に強く流れ小杢を交え、地沸厚く地景が明瞭で、この地鉄の上に淡い乱れ映りが立つ。古備前・山城の名残ともいえるこの映りを、石堂の工はこれほど明らかには残さない。刃文の静かな作では、宝永七年の脇指の如く鍛えはつんだ小板目となる。刃中の働きは型に収まらず連続的で、小足・葉が入り、砂流しかかり、金筋が現われ、浜御殿作の脇指では匂口が明るく冴える。彫物もまた画面の一部で、二口の写しには棒樋・連樋の中に滝不動と倶利伽羅が浮彫され、彫口は深く濃密で、写した不動国行に適った図様である。
一盛期の作は、説明が併せて示す二つの作域に分かれる。一つは右の華やかな丁子乱れ、作域の華やかな一面である。いま一つは名物写しの名手としての一面に結びつく静かな作風で、小のたれ又は小互の目に尖りごころ・丁子風を交え、小足が入り、匂口は深く又は明るく冴える。説明は同工に「不動国行写」「正宗写」などと添銘した作のあることを記し、「写し物も得意としている」とする。宝永七年の脇指がその名指しの好例で、「重包には稀な小丁子に小互の目の交った刃文がある」とされ、不動国行をねらった試みは成功して出来がよい作と評される。指定作はいずれも在銘で、うち三口は生ぶ茎に「筑州住源信国重包」の大振りの長銘を切り、一口は制作由来と年紀を三行に分けて添える。
写しの事績こそ同工を最も明らかに分かつ。それが目に見えるだけでなく文献に裏付けられるからである。第三十一回の大小は添銘を持たないが、説明はこれを名物日光一文字の写しと伝え、その華やかな出来口からその意図が十分に窺えるとする。浜御殿作の脇指はさらに進んで、重包はこの名物「不動国行」の写しを手がけており、「光徳刀絵図に所載されている」不動国行の本歌と寸法・彫物がほぼ一致し、茎の銘文よりこの時浜御殿で作刀されたことが分かる。明るく冴えた地刃、顕著な地沸、深い刃中の沸が、輪郭の似通う石堂作からこれらの写しを分かち、同工を他派の作風の借り手ではなく筑前信国派の筆頭の工として確かに位置づける。
藤代の極めで上作。公の指定記録に四口を数え、いずれも重要刀剣で、いずれも在銘である。伝来の筆頭は第五十九回の浜御殿作の脇指で、「台命を受けた特別の入念作」と評され、説明の言葉のままに「大徳川家に伝来した一口」として伝わり、刀としても享保の江戸鍛刀を裏付ける資料としても残る。他は東京・福岡の所蔵者を経た現所在の知られる作である。同工の作に国宝・重要文化財の指定はなく、文化財として市場の外に永く守られるという問題は生じない。私の蒐集家が現実に出会いうるのは、この小さく均質な作群の在銘でしばしば年紀のある重要刀剣で、時に現れる程度であり、現れれば特筆すべき機会となる。その稀少さゆえ、また保存する歴史事例ゆえに、台命の脇指は新刀を学ぶ者の出会いうる最も雄弁な作の一つであり、四口は併せて、説明が筑前信国派の筆頭に与える技量の高さを正確に示している。