応永二十年八月の年紀をきる脇指は薩摩の大島津家に伝わり、第二十六回特別重要刀剣に指定されたもので、指表に二行に「源左衛門尉信国」と長銘を切り、「国」の字のクニ構えの中が左字に作られる。この左字こそ、説明書がこの手について第一に挙げる見どころである。説明書はまず一家について「信国は京鍛冶の名門で、南北朝時代から室町時代にかけて大いに栄えた」と記す。室町時代に入ってからの一派では左衛門尉信国と式部丞信国の両工が代表格で、共に応永年紀をきるところから応永信国と呼ばれて賞翫される。一派は了戒系、すなわち来系より出て、初代は相州貞宗の門に学ぶと伝え、その延文・貞治の作が現存最古の年紀作であり、応永の工は三代と数えられる。通説には左衛門尉を兄とするが、説明書は知られている年紀では信国銘はむしろ式部丞が古いと注し、両者の関係を今後の研究課題とする。
最も一貫した特色は彫物である。説明書は左衛門尉・式部丞共に「濃厚な彫物を得意としている」と記し、遺例もこれを裏付ける。火焔梵字、櫃中の浮彫あるいは透しの倶利迦羅、三鈷剣・素剣、旗鉾、蓮台、樋中に切った八幡大菩薩の神号が表裏に繰り返し現れ、しばしば重ね彫りとなる。ある重要刀剣の脇指については、地刃の出来は尋常ながら櫃の中に透した倶利迦羅の彫物は見事であるとされる。得意の刃文が第二の見どころである。説明書によれば信国各代の作風は京物の伝統を示した直刃と貞宗風を受け継いだのたれ刃の二様が主であるが、南北朝時代末期の代替わりの信国から応永信国にかけては「互の目主調の乱れ刃の作域を新たに見ることが出来る」。その要は二つずつ連れる互の目で、説明書は「互の目が二つずつ矢筈形に連れた特色ある刃文」と記し、角張る刃・尖り刃、小のたれ、丁子風の刃を交える。足・葉入り、小沸厚くつき、金筋・砂流しがかかり、焼頭に飛焼・湯走りを交えて匂口明るい。
二様の刃の下には一つの地鉄がある。板目に杢を交え、処々刃寄りに流れて柾がかり、肌立ちごころとなり、地沸厚くつき地景頻りに入る。鍛えがつめば小板目となる。京物の伝統を守る直刃は、その作中ではむしろ稀な面である。細直刃から中直刃で、時に僅かに小互の目を交え、小足・葉入り、小沸よくつき、刃縁処々ほつれて金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐに小丸、掃きかける。大島津家の脇指について説明書は、その直刃を「匂口明るく刃中よく働き」と評する。細直刃の応永の短刀については比較を引き、「応永備前も直刃の作を好んで焼くがやはり信国の方が沸が強いようである」とする。また別の説明は「この時代の信国には直刃の出来は珍しく」と記し、匂口しまりごころの直刃を巧みに焼いた大振りの脇指は来物を思わせるとされる。
遺例の多くは平造・三ツ棟のやや寸延びた脇指・短刀で、その姿は応永備前と同じと評されるものもある。在銘の太刀は少ない。応永二年紀の太刀と応永四年紀の菖蒲造脇指は、前時代の終わりから応永にかけての信国と鑑せられ、その年紀は同派同工の研究の上で資料的にも貴重とされる。さらに応永十五・二十・二十一・三十・三十四年の年紀作が続く。戦前の重要美術品である応永三十四年紀の太刀について、説明は南北朝期の信国と異なって「丁子乱のにぎやかな刃文」を焼くと記す。式部丞の短刀には同作中経眼稀な皆焼刃を焼いたものがあり、同国の先輩である長谷部一類の作風を意識したものかとされる。銘がその鑑定を締めくくる。名は源を冠し、通称源左衛門尉は正しくは「源」左衛門尉であり、その「国」の字は中を左字に作る点で知られ、この書体は南北朝後期の至徳・明徳から見え応永に多いとされる。本間による御物台帳はこれに注意を加え、この書体は「必ずしも源左衛門尉に限ったことではなく、後代信国にも見るところである」として、出来と銘とを勘案すべきとする。左字の「国」をもつ短刀にも、源左衛門尉とみるべきかにわかに決し難いとされるものがある。
説明書によれば初代信国は貞宗の門下で、「殆んど師貞宗に迫る作風を示している」。応永の代はその相州の沸を連れた互の目に保ちつつ、明るい京の直刃を守り、二つずつ連れる互の目、刃寄りに流れる肌立ちの板目、強い沸、そして重ね彫りの宗教彫物という組合せがこの手を際立たせる。説明書はまた、同じ頃に信国と二字銘に切る刀工が他にもおり、同年代に複数の同名の存在が考えられるとし、無年紀・二字銘の作は銘振りと作風によって左衛門尉・式部丞に擬せられる。一門は後に分かれ、九州豊後に移住した者は信国何某と銘した。本間はまた、信国一派の茎尻は初代から後代に至るまで貞宗の剣形とは相違して皆丸い栗尻であると注する。
藤代の極めは上々作。指定を受けた作は四十四口を数える。国宝はない。重要文化財一口は「奉富士本宮源式部丞信国」と切り応永廿四年紀のある脇指で、富士山本宮浅間神社に伝わる。特別重要刀剣一口・重要刀剣三十九口、両格で四十口に上り、応永三十四年紀の太刀は徳川宗敬旧蔵の戦前の重要美術品であり、剣と短刀の二口が本間による御物台帳に所載される。指定作のうち在銘は四十三口、無銘は一口にとどまる。伝来は薩摩大島津家、徳川将軍家・尾張徳川家、細川忠興、久邇宮家に及ぶ。多武峯賢聖院伝来の短刀は、四代家綱から五代綱吉への将軍職継承の折に多武峯より将軍家に献上されたもので、多武峯では将軍の御代替ごとに寺宝の刀剣一腰ずつを献上したという。所在の知られるものは熱田神宮・伊勢神宮・徳川美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所・九州国立博物館・京都国立博物館などに収まる。蒐集家にとって応永信国は忍耐をもって手の届く名であり、重要刀剣級の在銘の脇指・短刀は時折市に現れるが、説明書が「頗る貴珍」とする在銘の太刀が現れることは稀で、現れれば一つの出来事となる。