応永二十年八月の年紀をきる脇指は、薩摩の大島津家に伝わり、今は特別重要刀剣に列するが、その銘は源左衛門尉信国と読め、「国」の字のクニ構えの中が左字に作られている、この手を鑑する見どころである。これが応永信国、すなわち京の名門信国家の室町初期の世代で、通常三代と数えられ、源左衛門尉信国と式部丞信国の両名工を代表とする。両者ともに応永年紀をきるところから、説明書はこれを応永信国と呼んで賞翫すると記す。一家は了戒系より出て、初代は相州貞宗に学び貞宗三哲の一に数えると伝え、応永の工は京の精緻と相州の沸の双方を一身に負う。説明書はその冒頭に平らかに、「信国は京鍛冶の名門で」南北朝時代から室町時代にかけて大いに栄えたと述べる。
応永信国の最も一貫した特徴は、一つの刃文ではなく彫物であり、説明書もそのように名指して、左衛門尉・式部丞ともに濃密で力強い彫物を得意とするという。梵字や火焔梵字、櫃中に浮彫または欄間透しの倶利迦羅、三鈷剣・素剣、旗鉾、蓮台、樋中に切った八幡大菩薩の神号などが繰り返し現れ、重ね彫りにされて、説明書は度々これを見事と評する。銘は第二の見どころである。左衛門尉は「国」の字の中が逆に作られる点で一部鑑せられ、説明書はこれを大きな見どころとし、「国」の字のクニ構えの中が左字になっているとする。これは南北朝後期の至徳・明徳から見え、応永に多い。姓は源であるから、通称源左衛門尉は正しくは源左衛門尉である。
二様の刃のいずれの下にも、一つの地鉄がある。地鉄は杢を交えた板目で、刃寄りに流れて柾となり、やや肌立ち、地沸厚くつき地景頻りに入る。鍛えがつまれば小板目となり、ある脇指では刃寄りに淡い棒映りと地斑が立つ。その地の上で刃文は二つに分かれる。一つは京物本来の伝統を保つ直刃で、細直刃から中直刃、匂口明るく、小足・葉入り、小沸つき、細かに砂流し・金筋がかかり、刃縁処々ほつれ、帽子は直ぐに小丸、僅かに掃きかける。説明書はこの直刃をこの時代の信国には珍しいものとして賞し、慎重な比較を引いて、「応永備前も直刃の作を好んで焼くがや」はり信国の方が沸が強いようであるとする。
もう一つの作域は、貞宗の系譜を継ぐ沸の強い互の目乱れである。一派には、と説明書は説く、二様の刃が降る、すなわち「京物の伝統を示した直刃と貞宗風を受け継い」だのたれ刃である。そして南北朝末期の代替わりから応永の代にかけて、さらに新たな作域、すなわち「互の目主調の乱れ刃の作域を新たに見ることが」できるとする。これらの作では互の目に小のたれ・尖り刃を交え、時に角張った互の目や矢筈風を交え、足・葉入り、小沸よくつき、総じて砂流し・金筋がかかり、処々に飛焼・湯走りを交える。帽子は乱れ込んで小丸あるいは尖りごころに返り、時に焼詰めとなる。現存する作の多くは短刀・脇指でやや寸延び、在銘年紀の太刀は少数で、説明書は在銘信国の太刀を頗る貴珍とし、健全と稀少をもって貴ぶ。
応永信国を際立たせるのは、この二つの系譜が京の一手に出会うところである。初代は、と説明書は記す、相州貞宗の門下で、「殆んど師貞宗に迫る作風」を示す。応永の工はその相州の強さを互の目乱れに保ちつつ、明るい山城の直刃と都の精緻な彫物を守る。明るい匂口と冴えた刃中の働き、刃寄りに柾を交えた肌立ちの板目、何より重ね彫りの宗教彫物は、同時代の備前の実用的な樋とは彼を分かつ。両名工の関係は未決のままで、通説に左衛門尉を兄、式部丞を弟と伝えるが、説明書は年紀を厳密に読めば上下が前後すると注し、今後の研究に委ねる。
収集の観点では、応永信国は記録の確かな有数の名である。藤代の極めは上々作、刀工大鑑も京の古刀上位に値する。国宝はなく、その記録はむしろ重要文化財二口、うち一口は富士の宮に奉納された式部丞の脇指で富士山本宮浅間大社に伝わり、これに特別重要刀剣一口と戦前の重要美術品、御物二口を加える。その作は来歴の確かな神社・博物館・旧家に伝わり、薩摩大島津家の脇指、徳川宗敬旧蔵の重要美術品の太刀のほか、熱田神宮・伊勢神宮・徳川美術館・三井記念美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所に記録される。特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであり、在銘の応永信国が世に出るのは時折にとどまり、残るものの多くは稀少な在銘太刀ではなく短刀・脇指である。健全で、濃密な彫物と明るい直刃あるいは沸の強い互の目乱れを備えた私蔵の一口は、収集家にとって出会う価値のあるものであり、京の貞宗の系譜がいかに室町へ運ばれたかを語る証である。