包永は大和五派の一つ手掻派の祖と伝えられる。同派は東大寺の西正門にあたる転害門の外辺に居住し、東大寺に隷属していたものと推察される。説明書の定型評は明快で、その作風は「大和物の中では最も沸の強いものであり、匂口が明るく、地がねもよく冴える」とし、沸と並べて「姿が凜然として格調の高いものが多い」ことも見どころに挙げる。初代と鑑せられる作に年紀はなく、銘鑑は正応頃(一二八八~九三)とするが、二代の子とも弟子とも伝える包清に嘉暦四年(一三二九)紀の短刀が遺ること、また作域・造込みからして更に時代の遡るものとの見解が繰り返し示され、活躍期は鎌倉時代中期から末期にかけてと読まれる。以降同銘数代が継承し、作例は室町時代に及ぶ。
見どころはまず造込みにある。鎬高く鎬幅広く、現存作の殆どは磨上の太刀で、腰反りを残して中鋒に結ぶ。その上に焼かれる刃文は直刃調に浅くのたれ、小互の目を交え、匂深く、刃縁はほつれて打のけ・喰違刃・二重刃がかかり、湯走りが地にこぼれ、金筋・砂流しが走る。説明書が一口ごとに特筆するのは沸そのものである。此の工には他派よりも特に強く沸づくことがあり、「つぶらで輝きのある美しい沸」が見られ、地刃共によく冴える。帽子は直ぐに強く掃きかけて焼詰め、或いは小丸に浅く返る。
鍛えは板目に処々杢を交え、刃寄りに流れて柾がかり、地沸厚くつき、地景頻りに入り、かねが冴える。物打辺で焼幅を広めて沸が強まることも、在銘・無銘を問わず記される。表裏の刃文が異なるものがあることは名物「児手柏包永」に代表される特筆点である。常の華やかな沸に対して、「焼きの低い穏やかな直刃仕立て」の一類も記録され、時に細直刃となる。本阿弥光遜が朱書を加え那古野神社に伝来した一口を、説明書は「穏やかな部類の包永」と鑑し、ここでも厚い地沸・地景と「輝くつぶらな沸」が極めの拠り所となる。
現存作は二つの作域に分かれる。大和物の中でも包永の在銘の太刀は比較的多く現存し、それらは茎先に二字銘を遺す磨上の状態のものが殆どで、生ぶは僅かに二口を数えるに過ぎない。銘字も極めの規準として記録され、「包」の字が竪づまりとなり、「永」の字の「第二画の竪棒を極端に長く」引くところが見どころとされる。在銘太刀がほぼ一様の磨上状態であることへの疑問に対しては、同様の太刀を磨上げれば同様の状態となるのはむしろ当然で「不審とするに足りない」と説明書は断じる。今一つの作域は大磨上無銘の極めで、喰違刃は在銘作よりも遥かに頻繁に現れ、極めは沸の質に懸かる。その一口について説明書は、仔細に見れば「通常の手掻以上に一際匂深く光美しい刃沸が厚くつき」、ここに包永の極めが首肯されると記し、また別の一口は「すべてに有銘の包永に直結する出来が示された優品で、所伝は正しく首肯される」と評された。本稿の対象は初代である。南北朝期の二代は別に扱われ、後代作は地が「白けごころ」となり、匂口が締まって小沸ごころとなる点で、初代の明るく強い沸から判然と分かれる。
大和物で並び称されるのは尻懸則長であるが、その分かれ目は包永自身の特色に沿う。彼は浅くのたれる直刃調を保ち、小互の目が連れて連なることはなく、湯走り・打のけ・二重刃が刃縁の上に自在に働く。評価は大和の外にも及ぶ。本間は初代の沸について「まま粟田口久国に見るような輝く沸を見る」と語り、第八回特別重要の説明は、美しく輝く沸を「相州上工」に匹敵するものと評した。九代将軍拝領の太刀に至っては「同作中の白眉である」とまで記される。
藤代の評価は上々作。指定を受けた作は六十七口を数え、うち国宝一口、重要文化財五口、重要美術品九口、特別重要刀剣八口、重要刀剣四十一口を含む。国宝と重要文化財は社寺・美術館・旧家に永く護られる文化財であり、市に出ることはない。記録される所蔵先には東京国立博物館・姫路神社・四條畷神社・佐野美術館・徳川美術館が連なる。伝来も深く、二十五口が来歴を伝える。九代将軍徳川家重から水野和泉守忠之が拝領し、のち犬養木堂の愛蔵となった太刀があり、別の一口は徳川家斉より姫路酒井家の酒井忠学が拝領した。在銘の一口には本多忠勝の孫で千姫の夫である本多平八郎忠為(忠刻)所持の金象嵌が残り、堀尾茂助所用と伝え勢州石川家に伝来した折返銘の刀は、棟に「武勲を物語る」大きな切込みを留める。伝包永の一口には天和二年(一六八二)「四ツ胴落」松本長太夫の截断金象嵌がある。伝来の列は伊達家・蜂須賀家・水野家・皇室にも及ぶ。蒐集家にとって現実の領域は特別重要・重要の四十九口である。在銘は古作としては異例に多く、ここでは在銘十八口に対し無銘極め十口を数えるが、茎先に二字銘を遺す太刀が市に現れることは稀で、より屡々見られるのは大磨上無銘の極めであり、その判断は説明書が常に立ち返るところ、円らな輝く沸に懸かっている。