応安三年(一三七〇)二月の年紀と「口州左衛門尉包清作」の長銘を切る短刀一口が、様式からのみ復元されるこの名にとって唯一の年紀の礎である。包清は大和手掻派の刀工であり、手掻派は東大寺の西の正門である転害門の外辺に居住し、東大寺に隷属していたと推測される一派である。銘鑑は初代包清を包永の子あるいは弟子と伝え、一説に二代包永の子ともいう。嘉暦四年(一三二九)紀の短刀が家を最も古い端に繋ぎ、以後同名は数代にわたり室町時代まで継承された。説明書は大和五派の中で手掻を最も栄えた一派とし、室町期には他派を吸収したかの如く此の派のみが存続したとする。包清はその長い系譜の中に、南北朝を代表する一手として立つ。
本工の手はまず地鉄に読まれる。柾目肌が目立ち板目・流れ肌を交えた鍛えに地沸厚くつき地景入る地の上に、おだやかな細い直刃を焼き、決して無地のまま残さない。刃縁には大和の働きが連なる。刃を毛羽立たせるほつれ、線を重ねる二重刃、刃が段をなして交わる喰違刃、これに砂流し・細かな金筋がかかり、よく沸づいて匂口明るく冴える。帽子は刃に応じて直ぐに小丸となり先掃きかけ、返りはやや深いものもある。鎬造の刀は造込み自体が大和であり、鎬筋高く鎬幅広め、説明書が所伝を首肯する際に名指す体配である。その一刀を説明書は地刃に手掻流の特色がよく示されるとし、「健全で出来のよい短刀」と評する。
地鉄こそ両者の内のより雄弁な半ばである。多くの大和の手がおだやかな柾を流すのに対し、包清の地は立ちかつ流れ、鎬幅広い刀に柾目が目立ち、その下に小板目がつみ、地沸厚く地景よく入って、無地の大和物の白けた肌ではなく抑えた明るさをたたえる。小ぶりの作には白け映りが微かに立つが、これは標準の備前の映りではなく、柾立つ地鉄の自然の反映である。この地に対して直刃は規律を保つが、働きが決してそれを鎮めない。在銘の太刀では刃がほつれて二重刃となり、沸よく金筋・沸筋入り、説明書は「輝く荒目の沸がつくところに手掻派の特徴がよくあらわれており」と、まさに荒目の沸の輝くところに派の特色を見る。本工の作が最も確かに本工自身のものとなるのはこの作域であり、大和の働きに動かされ匂口の冴えた南北朝手掻の直刃である。
作群は一筋の系譜に三つの時点を引く。多くは南北朝の典型で、直刃を基とし柾目立ち、大磨上無銘で手掻包清と極められ、在銘の太刀も同じ手を示す。応安三年紀の短刀はこれらと一線を画す。身幅やや広く、やや寸延び、刃文は浅い大きな乱れに小のたれを交えてほつれかかり、総じて強く沸づいて砂流し・金筋かかり、上半の沸はとくに強く荒め交じり、帽子は表が地蔵ごころ、裏は尖って返る。説明書はこれを銘鑑にいう二代包永の子に該当する作と見、その鍛えに劣らず銘文を貴び、「銘文は資料的に貴重である」と記す。最も降る一口は最も遠く離れる。太鏨・大振りの五字銘で「手掻住」と切る寸延びの短刀で、のたれ調の大互の目乱れに棟を焼き飛焼を交えて皆焼ごころを呈するその作風を、説明書は「千子村正の作に近似する」と読み、「末手搔の作域を知る上でも好資料」と賞する。
本工を一門の中で分かつものは、対比よりも本工自身の作刀によく示される。その柾目はおだやかな大和の柾より開いて立ち、その直刃は無地の保昌の線よりほつれ・二重刃に富み、その沸は上半に荒く明るく育つところに最も特色がある。説明書が古い手掻の作風の薄らぎを量るときも本工の地平で量り、深く焼いた小丸帽子に同時代の包重・包俊に比し得る初期室町の短刀一口を、なお「同時代のものの中で優れたものである」とする。系の末においてその直刃は村正に近い大互の目の皆焼へと転じ、祖包永が鎌倉の直刃を焼いた一派は、包清の手を通じて永正・享禄頃へと辿られる。南北朝の直刃から末期の皆焼への弧は、末手掻そのものの降りを一名に語るものである。
包清は最上位ではなく指定の各位に全て収まる。記録は重要刀剣八口を数え、国宝・重要文化財・特別重要刀剣はなく、刀工としての位列は古刀の中で中程である。刀のいくつかは大磨上無銘を極めによって本工に帰したもので、その一口は本阿弥光一が金象嵌をもって極め、説明書はその極めを包永その人ではなく時代の僅かに下がった手掻派の作を示すものと読む。記録の作に大名家伝来はなく、現所蔵の機関も記録になく、大美術館ではなく私蔵と指定の手に伝わる工と見るのが正直なところである。蒐集家にとってこれは、古い大和の名の中では稀少でありながら比較的入手し得ることを意味する。在銘・年紀の短刀は時を待つべき稀品、大磨上の直刃の刀はより出会いやすく、末期の「手掻住」の皆焼の短刀は無二の資料である。最も健やかな刀の一口を説明書は「地刃健やかにして出来がよく、同工極めの優品である」とし、他の一口では手掻派の特色が十分に示されているとする。これらの判が本工の作を最もよく評し、また迎える言葉である。