本コードで記録される四口の一つに、享禄二年(一五二九)の年紀をもち、大和国手搔住包清作と銘した刀がある。茎いっぱいに高く長銘を切るこの作は、本工を大和手掻派の中に明確に位置づける。手掻派は説明書が大和五派の中で最大の流派とする系で、東大寺の西の正門である転害門の外辺に一派が居住して作刀したことからこの名がおこったといわれる。包清は数代に継承された名で、伝えに初代包永の子を始めとし、銘鑑は嘉暦より天文まで同銘七代の継承を数える。本コードの手を説明書は、地刃の出来および銘振りより室町初期の応永頃に活躍した包清と見、その作はほとんどが磨上無銘の極めではなく在銘・生ぶの刀剣で知られる。
その手は華やかな乱れではなく、内から働きで動く大和の直刃である。板目、あるいは小板目つみが刃寄りに流れて柾ごころとなる地の上に、直刃調を焼いて小のたれ・連れた小互の目を交え、全体に手掻派の働きを敷く。説明書はある短刀を、直刃に小のたれや互の目を交え、刃縁にほつれ・打のけかかり、匂口締りごころに小沸つき金筋入るとし、これらの特色が「大和手掻派の作風をよく示している」と結ぶ。喰違刃、二段刃風、刃中に入る湯走りも同じ作域に属する。大模様ではなく、おだやかな焼刃に織り込まれた大和の細部に見どころのある、近くで読む焼刃である。
これらを読む地鉄が要である。板目はよく練れてつむが、刃寄りでは流れて肌が立ち、ある短刀では指表が肌立って流れ柾を交えると説明書は記す。地沸厚くつき地景入り、棟寄りに白っぽい映りが立つことがあって、一作では沸映りと、末期の年紀作では地に白らけ立つ白け映りと記される。帽子は手掻派の大和の結びに従い、多くは直ぐに先尖って掃きかけ、あるいは乱れ込んで尖り返り、返りはやや深いものもある。短刀には説明書がとくに挙げる彫物、表裏に掻く素剣を添え、「彫深く、力があり、大和物に見る特色あるものである」とする。
四口に同じ手を室町初期の三つの時点で読む。中核は応永期の在銘の短刀で、平造・三ッ棟、重ね厚く丈夫な造込みの尋常の姿、反りなく、直刃と素剣の大和の手が最も明らかである。これに身幅広い平造の脇指が並び、応永の姿を最も読みやすく示す。身幅やや広く、身幅の割に大きく寸延び、僅かに内反りつき、直刃調が浅く湾れごころを帯び、刃縁に断続的に二重刃が現われて、説明書はこれを光強く「刃縁に光の強い二重刃が断続的にきらめく」と記し、匂口は明るい。最も降るのが享禄二年紀の刀で、先反りつき中鋒延びる鎬造、板目肌に白らけ立ち、直刃調に互の目交じり小足入り、鑢目を鷹羽に切る。説明書はこれを鷹羽の鑢目等とともに「末手掻の特色をよく示したもの」と見、享禄の年紀を貴重とする。二字銘と手搔住の長銘は、その作域に同じ名跡が続くことを示す。
同派の中で本工を分かつものは、対比よりもその固有の見どころから引くのがよい。この応永の手はよく練れた板目を保ち、刃寄りでのみ流れて柾に傾き、連れた小互の目・喰違刃・光る二重刃にこそ見どころのある直刃を貫いて、大模様の乱れには出ない。南北朝の古い世代がより肌立ち沸を強くするのに対し、本工はおだやかな線を保って近くで読ませ、説明書は応永の姿と銘振りをもってその別を引く。説明書は身幅広い脇指を「室町初期手掻派の特色を顕現した典型作」とし、これが本コードの支える位置である。すなわち地刃健全な応永の末手掻を代表する手であり、大和五派が事実上この一派に絞られた頃に、手掻の大和の文法を保った工である。
収集の上では記録は小さく、すべて重要刀剣の格にとどまる。本工の刀剣四口は重要の指定を受け、国宝・重要文化財・特別重要はなく、大名伝来や所蔵機関の記録も伴わないため、著名な作の連なりよりも、僅かな指定作で知られる工というのが正直なところである。四口のうち二口が広く流通しうる重要の層にあり、これは折に触れ、根気をもって市場に現れる程度を意味し、容易に見つかるということではない。在銘の短刀、寸延びの脇指、年紀の刀が、本工の遺る姿である。在銘・年紀・生ぶの末手掻はそれ自体まれであり、ことに手搔住の長銘と年紀をもつ享禄の刀は、収集家がめったに出会わず、この派の定点として手元に置く類の作である。鎌倉の大名跡のようには遠くないが、記録の残る一口は、なお意図して探し当てる類の作である。