包次の最も遡る年紀作は文保元年(一三一七)の小ぶりな短刀で、現存する大和手掻派の在銘作の中でも最も古い年紀をもつ一口であり、説明書はこれを資料的に極めて貴重なものとする。本工は奈良の手掻派に属し、参考書はこれを東大寺に従属していた鍛冶集団とし、手掻とも転害とも書いて、大寺の西の正面に当たる転害門の外辺に工房を構えたことに名が由来するという。大和五派の中で手掻が最も規模が大きく、鎌倉時代後期から南北朝、さらに室町期にかけて栄えた。銘鑑は包次を初代の祖・包永の子とし、初期の大和の工の多くが確かな編年を残さぬ中で、文保元年から元弘三年(一三三三)・暦応三年(一三四〇)へと三つの年紀銘を残しており、鎌倉の終わりと南北朝の初めとを橋渡しする位置に置かれる。
作風は二つの手に分かれる。その主体は短刀で、棟高く内反りの細身な平造、身幅の割にやや寸延びるものもあり、鎌倉後期・大和短刀の典型の体配となる。その上の焼刃はおだやかな直刃、あるいは小互の目を交えた直刃調で、華やかというより浅く締まり、大和の手の知られる小さな働きに動かされる。刃縁は細かに沸ほつれ、小足入り、金筋・砂流しが刃に沿って細かにかかり、匂口は明るく締まりごころとなる。いま一つの手は一口の磨上の太刀に遺り、その出来ははるかに健やかである。小互の目を交えた小乱に足・葉頻りに入り、砂流しかかり金筋処々に入って、肌立つ柾がかりの地の上に焼かれ、自身の短刀の静かな直刃よりも、古い大和や古備前の乱れを顧みる一手となっている。
地鉄こそ本工の流派を最もよく語る。鍛えは板目、しばしばつんで杢を交え、流れて柾がかり、時に肌立ちごころとなって、本工を奈良の手掻に置く構造的な見どころを示す。その上に地沸が細かに厚くつき、地景が細かに地を縫い、佳作の短刀では区元より水影が立って棟寄りの淡い映りに繋がる。これを説明書は鎌倉後期手掻の出来を示すものと読む。一口の太刀は同じ映りのより強い姿、肌立つ地に立つ沸映りをもつ。帽子も二つの手に応じて異なる。短刀では直ぐに焼詰めとなり、あるいはごく僅かに返るのみの小丸となって同じ抑制に通い、太刀では表に僅かに濡れ込み、裏は掃きかけて尖りごころに返る。
年紀の短刀は本工について知り得ることの背骨である。文保元年(一三一七)の作は、水影が映りに立ち上がる細身の一口で、三口のうち最も古く、現存する手掻の最も遡る年紀作であり、説明書はその文保の年紀を同作中最も遡る制作とし、資料的に極めて貴重なものとする。元弘三年(一三三三)の短刀は、杢を交えた板目にやや肌立ち地沸つく地の上に、直刃に僅かに互の目を交え、帽子は焼詰め風となる。暦応三年(一三四〇)の短刀は「大和国住包次」の長銘を切り、三口で最も働きの加わった焼刃、小互の目を交えた直刃調に刃縁の沸ほつれ、細かな金筋・砂流しを示し、説明書はこれを「全てに大和手掻派の特色の看取される優品」とし、地刃の保存も頗るよいとする。短刀のうち二口は樋の中またはその傍に彫物を伴い、文保作は倶利迦羅の浮彫、暦応作は護摩箸を掻き流す。
磨上の太刀はこれらと趣を異にし、説明書の言うとおり極めて珍しい遺例である。在銘の大和包次の太刀は極めて少なく、年紀のある太刀を見ないからである。鎬造・庵棟、磨上げて反り浅く中鋒となり、表裏に棒樋を掻き通し、磨上げた茎の先に二字銘を細鏨で大振りに切る。その作中の意味は短刀の与え得ぬもの、すなわち本工が長寸でいかに、また古い乱れの語法でいかに鍛えたかの証であり、説明書は出来をよしとし、本工を初代包永の子とする所伝をほぼ首肯すべき作として、頗る珍品にして好資料とする。おだやかな直刃の短刀と並べれば、その健やかな小乱と立つ沸映りは、一人の初期手掻の手の振幅を示し、本工を静かな短刀のみの工と見ることを許さない。
包次は、記録に即せば市場の工というより研究の蔵の工である。指定四口はいずれも重要刀剣の格にあり、決して市場に出ぬ遺産の層に属するものもない。本工は刀工大鑑に位置を占めるが藤代の格付けはない。これが実際に意味するところは、その作が入手し得ぬというより、稀であるということである。現存は数少なく、いずれも在銘で多くが年紀を伴い、大名家ではなく諸県の記録された手を経ており、所載の記録に大名伝来は付かない。私蔵の一口が収集家のもとに現れるのは稀で、装飾のためというより、初期の世代を据えにくい一派の研究に確かな年紀をもたらす資料的な逸品としてである。重要十七回の太刀に対する審査の言葉、出来もよく、頗る珍品であり、好資料でもあるとの評は、刀に劣らずこの工その人にもよく当てはまる。