江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
筒井輝邦紀充刀匠は業物の作者で有名です。大和文殊派の代表的刀匠で、越中守包国刀匠の子供で初銘は父の名を継ぎ包国と名乗り元禄末年頃に入道して紀充と銘を切りました。語呂が良いので「きじゅう」「きじゅう」と呼ばれています。初は大坂の地で刀を作っており後に大和郡山の九条で刀を作っていました。父包国が大阪初代丹波守吉道の門人であったために紀充刀匠自身初期は大坂で刀を作っていたために大坂新刀に見える刀を作っています。本脇差は享保十七年(1732年)(292年前)筒井紀充刀匠66歳の野心作で相州秋廣を写した名脇差です。時は八代将軍徳川吉宗の享保の改革の真っ最中で初代徳川家康の政治の時代に返せとの武断政治の真っただ中の素晴らしく情熱的な時代です。本脇差の姿は元身幅広く先身幅との差の有る反りの有る長寸の豪壮な姿を現し、地金は小板目肌が詰み地沸が付き、刃紋は沸出来の大互の目刃にのたれ乱れ刃を焼き返りが深く棟まで全て焼ききり、ここに相州秋廣を写して素晴らしく覇気有る脇差を作って成功しています。この度古い御数寄者様から自分も年を取ったのでこの様に有名な紀充の相州秋廣写しの名作を後世の方にお安くお譲り下さいとの事で特別に格安にてご提供いたします。貴重な筒井紀充刀匠の相州秋廣写しの名脇差を是非お楽しみ下さい。
江戸 · 長さ 52.9cm · 反り 1.3cm















大和伝 · 大和 · 1673-1713頃
現在2点販売中
紀充の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 大和
現在3点販売中
説示が扱う筒井越中守紀充は、流派名に付された大和伝・古作の枠とは時代も伝統も明確に異なり、江戸中期の大坂系新刀工である。説示はいずれも、紀充を大坂初代丹波守吉道の門人である二代越中守包国の弟子あるいは子と伝え、はじめ輝邦と称し、元禄六年頃より紀充と銘を改めたと記す。年紀は享保五年、同九年、享保十六年、正徳三年に及び、活動の場としては河州(河内)、和州郡山が銘文に現れる。したがって本群を大和伝・平安から室町の流派として括るのは説示の内容に合わず、ここでは説示が示す大坂新刀の作域に従って記す。 作風として説示が一貫して挙げるのは、濤瀾風の大互の目乱れである。互の目を大きくうねらせて飛焼を交え、匂い深く小沸がつき、砂流しが頻りにかかって金筋の入るものがある。地鉄は小板目肌がつみ、あるいは板目に柾ごころを交え、地沸がつく。鎬造庵棟で身幅広く重ね厚め、中鋒の姿をとり、先反りがつく作もある。帽子は大丸風に深く返るもの、僅かに乱れ込んで小丸に返るものなど一様ではない。茎は生ぶ、栗尻、鑢目筋違に化粧を施し、指表棟寄りに長銘、裏に年紀を切る形が共通する。師系の包国を経て初代吉道に遡る大坂吉道一門の作域を、この濤瀾刃が端的に示している。 鑑定の要点は、まずこの濤瀾風の大乱れと砂流し・飛焼の組み合わせにあり、銘振りでは輝邦・紀充の改銘関係、および輝邦入道紀充と切る形が手がかりとなる。代表作としては、享保九年紀の刀のように濤瀾の大互の目に砂流しがかかり出来の傑出したものが挙げられ、説示はこれを同工典型の作と評する。裏銘に一輝邦・二紀充・三助三郎が連なる合作銘の例もあり、その子か弟子かは説示も明らかにし得ぬとするが、工房的な制作のさまを伝える。正徳三年紀の刀には橋本六太夫茂安所持の添銘があり、所持銘を伴う点でも資料性が高い。総じて、説示に現れる紀充の作は、大坂吉道系の濤瀾刃を継いだ越中守一門の所産として位置づけられる。 詳しく見る →
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
お客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
筒井輝邦紀充刀匠は業物の作者で有名です。大和文殊派の代表的刀匠で、越中守包国刀匠の子供で初銘は父の名を継ぎ包国と名乗り元禄末年頃に入道して紀充と銘を切りました。語呂が良いので「きじゅう」「きじゅう」と呼ばれています。初は大坂の地で刀を作っており後に大和郡山の九条で刀を作っていました。父包国が大阪初代丹波守吉道の門人であったために紀充刀匠自身初期は大坂で刀を作っていたために大坂新刀に見える刀を作っています。本脇差は享保十七年(1732年)(292年前)筒井紀充刀匠66歳の野心作で相州秋廣を写した名脇差です。時は八代将軍徳川吉宗の享保の改革の真っ最中で初代徳川家康の政治の時代に返せとの武断政治の真っただ中の素晴らしく情熱的な時代です。本脇差の姿は元身幅広く先身幅との差の有る反りの有る長寸の豪壮な姿を現し、地金は小板目肌が詰み地沸が付き、刃紋は沸出来の大互の目刃にのたれ乱れ刃を焼き返りが深く棟まで全て焼ききり、ここに相州秋廣を写して素晴らしく覇気有る脇差を作って成功しています。この度古い御数寄者様から自分も年を取ったのでこの様に有名な紀充の相州秋廣写しの名作を後世の方にお安くお譲り下さいとの事で特別に格安にてご提供いたします。貴重な筒井紀充刀匠の相州秋廣写しの名脇差を是非お楽しみ下さい。
江戸 · 長さ 52.9cm · 反り 1.3cm















大和伝 · 大和 · 1673-1713頃
現在2点販売中
紀充の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 大和
現在3点販売中
説示が扱う筒井越中守紀充は、流派名に付された大和伝・古作の枠とは時代も伝統も明確に異なり、江戸中期の大坂系新刀工である。説示はいずれも、紀充を大坂初代丹波守吉道の門人である二代越中守包国の弟子あるいは子と伝え、はじめ輝邦と称し、元禄六年頃より紀充と銘を改めたと記す。年紀は享保五年、同九年、享保十六年、正徳三年に及び、活動の場としては河州(河内)、和州郡山が銘文に現れる。したがって本群を大和伝・平安から室町の流派として括るのは説示の内容に合わず、ここでは説示が示す大坂新刀の作域に従って記す。 作風として説示が一貫して挙げるのは、濤瀾風の大互の目乱れである。互の目を大きくうねらせて飛焼を交え、匂い深く小沸がつき、砂流しが頻りにかかって金筋の入るものがある。地鉄は小板目肌がつみ、あるいは板目に柾ごころを交え、地沸がつく。鎬造庵棟で身幅広く重ね厚め、中鋒の姿をとり、先反りがつく作もある。帽子は大丸風に深く返るもの、僅かに乱れ込んで小丸に返るものなど一様ではない。茎は生ぶ、栗尻、鑢目筋違に化粧を施し、指表棟寄りに長銘、裏に年紀を切る形が共通する。師系の包国を経て初代吉道に遡る大坂吉道一門の作域を、この濤瀾刃が端的に示している。 鑑定の要点は、まずこの濤瀾風の大乱れと砂流し・飛焼の組み合わせにあり、銘振りでは輝邦・紀充の改銘関係、および輝邦入道紀充と切る形が手がかりとなる。代表作としては、享保九年紀の刀のように濤瀾の大互の目に砂流しがかかり出来の傑出したものが挙げられ、説示はこれを同工典型の作と評する。裏銘に一輝邦・二紀充・三助三郎が連なる合作銘の例もあり、その子か弟子かは説示も明らかにし得ぬとするが、工房的な制作のさまを伝える。正徳三年紀の刀には橋本六太夫茂安所持の添銘があり、所持銘を伴う点でも資料性が高い。総じて、説示に現れる紀充の作は、大坂吉道系の濤瀾刃を継いだ越中守一門の所産として位置づけられる。 詳しく見る →
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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