説明

Skip to content ITEM# UJKA233 – Sold A Yamato Shizu Katana (大和志津) Kaneuji (兼氏) is counted among the Masamune Juttetsu – the Ten Students of Masamune – and is widely regarded as the one who most closely captured his master’s spirit in steel. His path to that position was itself extraordinary: he trained first under Kanenaga of the Tegai school in Yamato province, inheriting the character “Kane” from him, then journeyed to Kamakura to study under Masamune himself. This double foundation – Yamato tradition on one side, Sôshû mastery on the other – produced a synthesis unlike anything else in the kotô canon. Works made during his time in Yamato, before his eventual move to the town of Shizu in Mino, are designated Yamato Shizu ; these blades retain the structural signature of the Yamato schools while already showing the Sôshû influence that would come to define him. He would go on to become the founder of the Mino tradition – the fifth and last of the great kotô schools. This blade is a textbook example of what Tanobe Michihiro calls “a true mix of Shizu and Yamato features.” The sugata is wide and substantial, with a high shinogi, thin kasane, shallow sori, and an extending chû-kissaki – carrying the authority of a sword made in an age of war. The kitae is an itame mixed with mokume and partly nagare, with ji-nie and chikei moving through the grain; the close photography reveals the marvelous burl surface that is one of the most immediately recognisable hallmarks of the school. The hamon runs on a shallow notare base, animated throughout with gunome, many ko-ashi, ko-nie, kuichigai-ba, nijû-ba, uchi-noke, yubashiri, kinsuji, and sunagashi, with a bright nioiguchi. The bôshi features strong hakikake on both sides, the ura tending to kaen – vigorous and alive to the very tip. Both ji and ha are in fine condition. Tanobe Michihiro (Tanzan-sensei) inscribed the shirasaya in November 2016, confirming the Yamato Shizu attribution and declaring plainly that the blade “should

A YAMATO SHIZU KATANA (大和志津)
売切れ
Jūyō売切れ

A YAMATO SHIZU KATANA (大和志津)

売却済

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仕様

長さ

69.1 cm

反り

1.3 cm

元幅

2.9 cm

作者について

Shizu Kaneuji兼氏

6 重要文化財9 重要美術品19 特別重要刀剣122 重要刀剣

志津とは元来、美濃国の地名である。正宗の門人兼氏がこの地に来住して作刀したことから地名が工名に転じ、極めの伝統では「単に志津と呼んだ場合は兼氏を意味することになる」。初め大和手掻派の刀工で包氏と銘し、相州正宗の門に入った後、美濃志津に移住して兼氏と改めた。古来、正宗十哲の一人に数えられ、説明書は半世紀にわたり「それらの中にあって正宗に最も近い作風を示す刀工の一人」という一文を繰り返す。制作年紀のある作は皆無で、弟子と伝える兼次の観応元年(一三五〇)紀から推して、活躍期は鎌倉時代最末期から南北朝時代前期とされる。金象嵌の一口の解説は、濃州志津に住んで「美濃刀工の基を創造した」とまで記し、美濃と大和の刀工の往来の頻繁さが作風にも影響したと付け加えられる。 師との鑑別は一文で示される。正宗と相異するところは「鍛に柾ごころが交じり、刃中に互の目が連れる点にある」。板目は流れて柾がかり、これは手掻の出自が鋼に残るものである。互の目には尖り刃が交じり、相州本国には稀なこの尖りごころが美濃の萌芽を語る。さらに、正宗の乱れが二度と同じ形を見せないのに対し、兼氏は同形の互の目を二つ三つ連ね、説明書は「処々小互の目が連れた手癖」とまで呼ぶ。帽子は盛んに掃きかけて丸く返り、「帽子が浅くのたれて丸くおだやかである点も兼氏の特色」とされる。 作風の主体は南北朝盛期の堂々たる刀である。身幅広く元先の幅差目立たず、反り浅く、中鋒延びごころから大鋒となり、ほぼすべてが大磨上。鍛えは板目に杢・流れ肌を交え、地沸が厚く、優品では微塵につき、地景が頻りに入って冴える。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖り刃を交え、匂口深く、沸厚く明るく、処々荒めの沸を交え、金筋・砂流しがかかり、湯走り・飛焼を見る。帽子は乱れ込みまたはのたれ込んで小丸・大丸に返り、掃きかける。刃縁にはほつれ・喰違刃・二重刃・打のけが現れ、帽子が時に焼詰め風となるところに大和が覗く。特別重要第一回の一口は、流れごころの板目と尖りごころの互の目に加え「帽子が掃かけて焼詰め風となっているなど、大和風が見られ」として志津と鑑し、別の一口は柾気の鍛えと返りの浅い帽子に「大和気質があらわれ」と読む。「大和伝に相州伝を加味し」て志津の風を創始したという定式が、これらを束ねる。 在銘の作は「極めて稀れ」とほぼ同語で繰り返される。指定作のうち在銘は八口、無銘は一三六口に上り、極めは金象嵌・朱銘・本阿弥の折紙が支える。校正古刀銘鑑の著者菅原長根の金象嵌があり、「本阿弥光忠の享保三年極月三日付の代千五百貫の折紙」を帯びた一口があり、「花形見の金象嵌銘は、本阿弥光悦がものしたという伝来がある」短刀も伝わる。稀な在銘作は丸棟の太刀(樋先のやや下がった二筋樋を掻くものがある)と生ぶ茎・内反りの短刀で、南北朝の太刀としては寸が短く、「当時としてはあまり長大とならない姿形もあることがむしろ兼氏の特色」と結論される。無銘の極め物には両極が立つ。覇気の極では飛焼・湯走りが頻りにかかり、帽子に火焔の趣を見せて、「志津極めの中でも殊に覇気のある一口」、延文・貞治型の体配の「同工極め中の白眉」、「放胆な作風」ゆえに金象嵌の極めが首肯される第六十三回重要の刀が並ぶ。対極には焼を低く抑えた穏やかな作柄があり、小互の目交じり直刃調の在銘太刀(重美)は他の在銘作とも趣を異にする。代別は銘で扱われ、南北朝期に少なくとも二代が想定され、本間順治は「概して大振りの銘は初代、小振りの銘は二代以後」とし、また「初代銘は角張って大きいところが特徴である」と記される。 周辺の極めは截然と分けられる。志津極めは「俗に大志津と称する初代兼氏の作から」二代・三代と直弟子に及ぶことがあり、直系の作は「所謂直江志津と称するところまで下るものではなく」と区別される。門葉が同国直江に移った直江志津は、志津に比べて地鉄に「地沸が少ない感があり地景も少なくなる」とされ、働きは小づんで淋しいか、逆に大模様になる。この格子は実際に運用されて改められもする。第十五回重要で直江志津とされた一口は、第七回特別重要で伝志津に改められた。境界は上方、師その人にも引かれる。特別重要第一回の刀は本阿弥光勇の折紙で貞宗、鞘書で正宗とされていたが、流れる鍛えと尖りの互の目、掃きかけて焼詰め風の帽子から志津と鑑せられ、「志津の作中の最高の出来」と称された。志津に発した美濃鍛冶はその後の刀剣史を支え、二百数十年の後、堀川国広の慶長相州復興はとりわけ志津を範とした。 藤代の格付けは最上作。国宝はなく、重要文化財は六口で、説明書には重文の在銘太刀三口、日本美術刀剣保存協会所蔵の在銘短刀、名物稲葉志津が引かれる。戦前の重要美術品九口、特別重要刀剣一九口・重要刀剣一二二口、両指定で一四一口、指定を受けた作は一五六口に上る。伝来は三二口に録され、徳川家康・徳川秀忠・前田利常・黒田長政・伊達家・佐竹義宣・細川侯爵家・延岡藩内藤家・尾張徳川家に及び、「長州毛利家襲蔵品との言い伝えがある」一口や、平井千葉の鞘書を持つ黒田志津がある。天正十年(一五八二)甲州若神子の対陣の後、井伊直政が木俣清三郎守勝に与え、彦根藩筆頭家老木俣家に伝来した短刀は、重文の名物稲葉志津に姿を擬えられた一口である。現所蔵の記録ある作は二荒山神社・徳川美術館・佐野美術館などに収まる。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の両指定であるが、いずれも長く秘蔵され、市場に現れることは稀である。現れた一口の茎は多く無銘であり、金象嵌か折紙がただ志津と告げる。それがこの伝統では一人の工の名である。

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