延宝六年六月十日、山野勘十郎久英は「肥後守橘吉次」と銘した刀で二ツ胴を切り、その結果を茎に三行の金象嵌で記した。山野の截断銘は吉次にあって稀有であるため、公刊資料はこれを資料として高く評価する。吉次は常陸の人で江戸に上った、法城寺一派の刀工である。法城寺派は相州伝系で本源を但馬に持ち、その江戸の分流を新刀期に担ったのが吉次で、公刊資料は彼を法城寺正弘の門とも、或は法城寺国正の門とも伝える。寛文頃に肥後守を受領し、元禄年間には島津家の抱え工として一時鹿児島で鍛刀し、薩摩鍛冶に少なからず影響を与えた後に江戸へ帰参したという。常陸出身・江戸住は推測ではない。陸奥塩竈神社に遺存する山野久英奉納の平造脇指が、本国常陸で武州江戸に至り五十に半ばした久英が肥後守吉次に作らせた旨を銘し、これを裏付ける。
彼の特色ある作風は、一派中で最も目立つと評される互の目である。作風は「法城寺門下の中でも互の目が最も目立った出来で、数珠刃風のものが多く」と記され、ある重要刀剣では、小のたれを基調に互の目が連れて交じり足がさかんに入る様を「正に吉次の持味」とする。刃文は小のたれに互の目が数珠刃風に連れ、小互の目を交え、足が太く頻りに入り、匂深く、匂口明るく小沸がよくつく。放胆な作では沸が厚く強くつき荒めの沸を交え、湯走りがかかって処々二重刃風を呈し、総体に細かに砂流しがかかり金筋が入る。帽子は直ぐ、または直刃調に小丸へ返り掃きかけ、焼深く長く返り、一口は表少しくびれて丸く地蔵風となる。銘そのものが見どころの一つで、長銘は指表、目釘孔の下棟寄りに、太鏨で大振りに切る。
鍛えは小板目に杢を交えてよくつみ、鎬地に強く柾がかり、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入る、古色の感ぜられる冴えた地鉄である。その地に刃中の働きが存分に現われ、公刊の評は江戸の互の目の名手に照らして読む。作風は「虎徹や兼重などに似た」ものとされ、出来の優れたものは「上総介兼重などに迫るもの」と評され、「一門中でも技術が卓抜している」と記される。延宝六年の重要刀剣の一口は、常よりも大きく乱れ、沸匂が一際深いとして「迫力ある一口で、抜群の出来映えを示している」とされ、別の令和の指定は「覇気に満ちた作域」と評する。
この一様の作域の中に、作風の変化ではなく茎に係る二つの作域が際立つ。第一は銘の作域で、太鏨大振りに切る長銘は肥後守に橘姓または法城寺を冠し、多く「肥後守橘吉次」と読み、鹿児島時代の一群は「薩州住肥後守橘吉次」と銘して薩摩在勤の証跡を残す。第二は截断銘の作域で、彼の作に目立つ。延宝六年の山野勘十郎久英の金象嵌の二ツ胴の銘、延宝五年の高屋甚太夫の「二つ胴截断」の銘、別の延宝五年の刀の相田団四郎の銘がそれである。公刊資料は山野の銘こそ稀有で、むしろ高屋甚太夫・相田国四郎の名を多く見るとし、ゆえに金象嵌の山野の作例を資料として殊に重んじる。正弘門とも国正門ともいう伝は、資料がそのまま未決の問題として提示する。
資料は彼を対比ではなく、その一派と類似によって位置づける。小のたれに数珠刃風の互の目、匂深く沸厚し、匂口明るく、太鏨大振りの長銘、つんだ小板目に微塵の地沸という自身の本領こそが、彼を法城寺一派中の最も目立つ互の目の工たらしめており、判者が引く類似は上に向かう、すなわち沸づいた互の目の江戸の名手、長曽祢虎徹と上総介兼重に対してであり、その優品はその域に迫るとされる。薩摩での一時期は彼にもう一つの位置を与える。公刊資料は鹿児島の歳月を彼の江戸の作風と後の薩摩鍛冶とを結ぶ記録として読み、常陸出身の法城寺の工が薩摩の記録に残るのはこの影響の故である。延宝五年の刀の一口は「薩摩武士の特別の注文」によると記され、「新刀には珍らしく反りが高い」もので、中身と朱色変塗の薩摩拵は元来製作を同じくすると見られる。
藤代の格付は作。指定は重要刀剣六口で、国宝・重要文化財・特別重要刀剣はなく、六口はいずれも刀、五口が在銘、一口が山野の金象嵌截断銘を帯びる。これらの刀に大名家への古い伝来は記録されないが、附帯する拵と関わる試し切り家はそれ自体が記録に残る。延宝五年の高屋甚太夫の刀は、金具を渡辺一誠利信の一作とする幕末の半太刀拵を附帯し、特注の薩摩刀は朱色変塗の薩摩打刀拵を伴う。彼の作はいずれも不可譲の文化財として留め置かれてはおらず、指定作の全てが流通の級にある。とはいえ、在銘の肥後守吉次、わけても截断銘を帯びた一口が市に出るのは折々のことに過ぎず、山野久英の金象嵌の作例は蒐集家が稀に出会う類のもの、刀であると同時に記録であり、力強い互の目に加えてその截断銘ゆえに公刊資料に重んじられている。