法城寺は但馬国の地名である。南北朝時代この地に「薙刀の名手国光」が在住したことから、国光のことを法城寺と呼び習わしていると説明書は繰り返し記す。「古来薙刀の名手として著名である」一方、有銘の太刀・薙刀は一口も現存せず、在銘作は僅少で短刀と平造脇指に限られ、その盛名を担う薙刀および薙刀直しの刀・脇指はことごとく無銘極めである。銘鑑では国光に初・二代を挙げ、初代を貞治(1362-68)、二代を応永とし、貞治年紀の作を載せるという。
無銘物について説明書の与える鑑定式は二段である。華やかな丁子乱れを焼いて「一見、備前一文字に見紛うほどのもの」でありながら、「地刃の沸が一段と強く、大模様の鍛えに地景が入り、さかんに肌立ち、刃中に金筋・砂流し等を頻りにあしらった作域」によって備前から分かたれる。体配は元先の幅差少なく、鎬地の肉を削いで重ね薄く、大鋒となる南北朝薙刀のそれであり、刃文は丁子乱れに互の目を交え、足・葉よく入り、匂深く沸厚くつき、烈しい口には飛焼・棟焼も交じる。帽子は乱れ込んで強く掃きかけ焼詰めとなるが、これは「後世に棟を磨つたが為である」と注される。
地鉄は板目に大板目・流れ肌を交えて大模様に肌立ち、地沸厚くつき、地景入り、乱れ映りが立つが、鮮明な口は少なく淡い口が多い。その淡さこそ見どころで、重要刀剣の一口は「地沸のよくついた地鉄で映りの弱い点、小沸のよくついた刃文などに但州法城寺の見どころがある」と記し、別の一口は「備前物に似て、異なるところは、互の目に丁子を交じえて、沸出来の刃文を焼き、更に砂流しの激しい点にある」と明言する。同じ極めの中に浅いのたれ調の静かな手や、匂口の締まった匂本位の手のあることも説明書自身が認めている。
在銘作は趣を全く異にし、説明書は在銘の一口ごとに「無銘極めのものとはその作風に隔たりが見られる」と説き直す。寸延びて内反りのつく平造短刀で、生ぶ茎の目釘孔下中央に太鏨大振りの「但州住国光」五字銘を切るのが通例であり、指裏に「国光」二字銘を切った一口は馬手指として使用されたものか、「極めて珍しい」とされる。現存の在銘作に華やかな丁子はなく、細直刃・中直刃に二重刃・三重刃をあしらい白け映りの立つ直刃の手と、小のたれに互の目を交え荒沸交じりに砂流しさかんにかかり匂口の沈む手とに分かれ、梵字・腰樋を彫る口が複数ある。しかし秋元家伝来の短刀を仔細に見れば、大模様に肌立った鍛えや地刃の顕著な働き、沈みごころの匂口に「一脈、無銘極めの出来口と相通じるものがある」とされ、この観察が両様を一人の工に繋ぐ。
系譜については、古来「相州貞宗の三哲の一人」に数える伝を、説明書は引くたびに退ける。「多くの疑問があり、俄かに賛成出来ない」「妥当を欠く」「もとより不当である」とし、一口は「むしろ備前物の影響が強い」と結ぶ。本間順治の重要美術品談は、一括四振りの薙刀直しを「一見全く同作と鑑せられるもので、初代但州国光である」とし、この手の刃文は在銘作に殆ど見当たらず、二代と思われるものに僅か二振りを経眼したのみと添える。無銘物には代々の本阿弥の極めが付き、本阿弥光温の金象嵌、本阿弥光忠の手と思われる四字の金象嵌、指裏の朱書がそれぞれ伝わるが、いずれも鑑定家の極め銘であって在銘ではない。
藤代の位列は上々作。公の指定は二十三口を数え、重要文化財二口、特別重要刀剣五口、重要刀剣十三口、重要美術品三口、うち在銘は五口にとどまる。伝来は六口に録される。秋元家伝来の短刀は『光山押形』に「徳松様」と注され、五代将軍綱吉が嗣子徳松に贈り、徳松早世の後の元禄十一年、東叡山中堂造営を承った秋元喬知が拝領して館林秋元家に伝来した。細直刃の短刀は大茶人小堀遠州が所持して後に加賀前田家に伝来し、別の前田家伝来の短刀の古鞘には本阿弥正三郎の「本阿弥法城寺」の名号が記される。所在の知られるものは出石神社・大多喜城博物館・黒川古文化研究所等に蔵され、重要文化財の二口は永く公けの財として伝わる。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の級、就中薙刀直しの刀・脇指であって市に現れることは稀であり、在銘の短刀に出会うことは一層稀である。