河内守源永国は、寛文八年(一六六八)に一刀を銘し、裏に古賀次左衛門久友による弐つ胴の截断切付銘を伴う。説明書はこれを永国の代表作とも称すべきものとし、地刃の出来が極めて優れていると記す。本工は寛文期の新刀工で、越前に寛永十年(一六三三)頃生まれたといい、その生年は、寛文八年に三十六歳の作と銘した遺作より逆算して定められる。江戸で法城寺国正門とも肥後守吉次門とも伝えられて修業し、のち肥後熊本で鍛刀し、一刀には鍛刀地を記す駐鎚銘を留める。藤代の極めは上作である。通説は本工を法城寺一門に列ね、その校名のもとに収めるが、説明書自身はその師について確言を控える。
本工の典型は、説明書が「典型的な寛文新刀の姿恰好を呈しており」と称する刃である。小板目つみの地に、直ぐに焼き出し、その上を直刃調に互の目連れて交じり、この連なる互の目を刃の一定の軸とする。足太くよく入り、匂深く、沸つき、砂流し・金筋刃中を走り、匂口明るく、帽子は大丸風に返り先掃きかける。説明書はこの匂深く匂口明るい作柄を、一見、上総介兼重や法城寺吉次あたりの作柄を想わせるとし、彼の立つ江戸の名工に比する一方、その一刀を地刃の出来が長曽祢虎徹の一門に迫るものと判ずる。
地鉄は精緻な見どころである。鍛えは小板目よくつみ、優作では杢を交え、地沸微塵に厚くつき地景細かによく入る地で、説明書がとりわけ精良と判じ、優作が虎徹に比される拠りどころである。その地に焼く直刃基調の刃は、静かな刃にとどまらない。最も豊かな遺作では、下半は互の目連れて乱れ小足さかんに入り、上半は互の目に小のたれ・小互の目・尖りごころの刃を交え、葉入り、処々に湯走り・飛焼を交え、金筋・沸筋よく入り、帽子は大丸に長く返る。なかでも砂流しと匂深が、その小さな現存作を通じて、直刃と互の目を平板に見せぬ。
本工の作は一つの手の二様に分かれる。第一は右に述べた寛文の典型、直刃の焼出しより連なる互の目へ、匂深く匂口明るい手で、説明書はこれを典型的な寛文新刀とし、兼重・吉次に通うものとみる。第二は精緻な晩年の手で、最優の遺作にみられ、乱れがいよいよ豊かに湯走り・飛焼を加える。この一刀について説明書は「常々の同工の作に比して、一際匂深で、小沸が厚くつき、刃中も働いて、匂口が明るい点が特筆され」と記す。作は鎬造・庵棟、反り浅く元先の幅差つき中鋒つまる寛文の体配を常とするが、一口の特異な脇指は表を切刃造、裏を鎬造に造り込み、幅広大鋒を呈して、同時代の江戸物に通う造込みとされる。指定の四口はいずれも生ぶ茎に在銘で、茎の鑢のかけ出しが徐々に深くなって大筋違となり、六字または七字の銘を切り、うち一口に長銘と金象嵌截断銘をみる。
本工を分かつものは、遠い他派にではなく江戸の地のうちに論じられる。通説は本工を法城寺一門とするが、説明書は、連なる互の目、互の目に交える小のたれ、厚くつく小沸、そして大筋違となる茎の鑢を大和守安定を想わせるものと読み、「或は永国は安定一門の刀工とも思われる」とまで述べて、その適否を今後の研究に俟つとする。本工自身の徴は、連なる互の目の下の直刃基調、砂流しに乗る匂深、晩年の地の細かな地景、説明書が立ち返る明るい匂口にある。肥後への移住は自らの鉄に記される。彼は熊本で南蛮鉄を用いて鍛刀し、説明書はこれを「おそらく、熊本藩主細川家からの招きによるものであろう」と推す。その交流は、彼が幼少の頃に歿した宮本武蔵にではなく、武蔵の弟子村上正雄・寺尾信行に辿られ、天和二年(一六八二)紀の作の銘文に彼らの名がみえる。
永国は藤代の極めで上作、刀工大鑑の評価は三五〇万円である。指定の記録は重要刀剣四口にとどまり、それを越える指定を数えず、これは名匠というより、力量ある個性的な寛文の手としての位置を示す。説明書は本工の遺例を「同工の遺例は比較的少ないが、その中にあって傑出した一口であり」と繰り返し、その小さな一群にあって指定品は傑出した遺作であって、いずれも在銘、数口は年紀をもち或は截断を帯び、截断銘と駐鎚銘とが、資料の薄い本工の作域と動向を知る上に貴ばれる。大名家や博物館への伝来は記録されず、いずれも私家を経たもので、截断と熊本の駐鎚銘が、資料の薄い新刀がしばしば欠く伝来の名を補っている。蒐集の上では、永国は国宝のように手の届かぬものではないが、稀である。指定は四口にとどまり、いずれも在銘で多くが年紀か截断を帯び、市にかかることは稀で、匂口明るく説明書の称する精緻な地に鍛えた出来のよい一口は、俟つに値する初期江戸の在銘作である。