篠山篤興(ささやま あつおき)は、江戸時代末期から明治にかけて京都で活躍した金工家である。通称は政一郎。俳諧の宗匠である夜半亭呉涯(元吉)の長男として文化十年(1813年)に生まれる。京金工の名門である大月派に属し、大月光興の高弟、川原林秀興(かわはらばやし ひでおき)に15歳で入門、その門下で腕を磨いた。天保九年(1838年)に師である秀興の長女を娶り独立。文久二年(1862年)には徳川将軍家(十四代将軍家茂公)から佩刀の金具彫刻を拝命し、その功により大隅大掾を受領。翌文久三年(1863年)には孝明天皇の短刀金具を制作する栄誉を拝し「一行斎」の号を授けられた。晩年は仙斎、松花亭などの別号も用いた。明治二十四年(1891年)に79歳で没するまで、京金工界の重鎮として活躍した。
篤興の作風は、師である川原林秀興から受け継いだ大月派の特色を色濃く反映している。すなわち「大月派の特色である絵風の意匠を高彫色絵を以て表す」作風を基調とし、平象嵌や片切彫等も駆使する。画題に優れ、花鳥、人物、故事など幅広い題材を扱い、写実的な表現と装飾的な表現を巧みに組み合わせる。その作風は「思い切った構図を取りながらも京風のどことなく雅やかで垢抜けた出来栄えを表す作域」と評されるように、洗練された意匠と卓越した彫技が特徴である。特に高彫色絵の出来栄えは高く評価されており、金、銀、赤銅、素銅、四分一など多様な素材を駆使し、緻密で繊細な象嵌を施すことで、作品に豊かな色彩と立体感を与えている。また、鉄地への彫技にも優れ、「実に暢達な鏨さばき」と評されるように、自在な彫口で対象の質感や動きを表現している。作には鐔、縁頭、小柄、笄などがあり、刀装具一式を手がけることもあった。
篤興は、幕末から明治にかけての大月派を代表する金工家の一人であり、その作品は、格調高く、品位に満ちている。NBTHKの説示においては、「名工の誉れが高い」「上手であり、特に画題に勝れ、端的な彫り口で、品位の高い作を多く遺している」と評されており、その技術の高さと芸術性が高く評価されていることが窺える。また、「写生派の本領が十分に発揮された」と評されるように、対象を的確に捉え、写実的に表現する能力にも優れていた。その作風は、同時代の金工家たちにも影響を与え、後の時代にも高く評価されている。