大月光興は、京都金工の名門である大月派の三代光芳の子として、明和三年(一七六六)に京都で生まれ、天保五年(一八三四)に六十九歳で没した。絵を岸駒に学び、長沢蘆雪とも親交があったと伝えられる。竜斎・大竜斎・竜駒堂・紫竜堂など多くの号を用い、銘は「雍州光興」、「月光興」、「三津興」などときる。説明は印銘に鼎印を用いたと記すが、本群で鼎印を捺すのは三点に過ぎず、多くは名のみ、あるいは松に鷹図鐔のように花押を添える。説明は繰り返し光興を同派の重鎮とする。
光興の作風は、説明が「正に絵風」とする通りで、高彫色絵、片切彫平象嵌と共にその彫法は巧みである。素材は鉄、赤銅、四分一、朧銀などを用いるが、中でも真鍮が多い。真鍮荒し地、四分一磨地、鉄磨地など多様な地金に、高彫、鋤出彫、片切彫、毛彫を駆使し、金、銀、赤銅、素銅、四分一などの象嵌色絵を効果的に配する。
鐔においては、形をかえ、材料をかえて製作し、月に芦雁、芦に雪図は彼が好んだ画題である。真鍮地の鋤出彫では、彫の高低によって筆の濃淡、霞や水面の揺らぎを巧みにあらわす。左義長図鐔では片切彫と毛彫を全体に効かせ、象嵌を多用して祭の賑わいを伝え、人物は今にも動き出しそうに描かれる。特に高彫においては、水流の勢いや猛虎の鋭い表情など、大きな迫力を生み出している。
説明は銘振りによって作の時期を分ける。隷書風の銘振りから初期作と判じられるものが二点あり、一は撫角形の真鍮地に老木と猛禽を画面左右に凛然と表した鐔、一は小柄である。また霞に半月を配した真鍮磨地の月下老杉図鐔を、説明は「彼の前期作」と明記する。その小柄では、魚子地に技巧に富んだ力強い高彫で、波濤に笠乗の仙人を、画面から飛び出さんばかりの迫真性をもって表す。
造形においては埋忠明寿、絵風の構図という点では金家といった京金工の大先輩の影響がうかがわれる。説明の評語は幾つかの句に帰し、「光興の力量を存分に感じられる一口である」とする作があり、その作風を絵風とする。説明は大月派を京都金工の名門に置き、光興をその重鎮とし、絵を学んだ彫工として物語性の高い叙情豊かな画面を創り出したとする。これが江戸後期の彫金工としての彼の位置である。
収集の観点では、光興の指定の記録は十三点で、いずれも重要刀装具、鐔十一枚と小柄二本である。特別重要刀装具はなく、現在の所蔵者や大名家の伝来も記録されていない。一枚の鐔は龍獅堂の箱に納められ、海野勝珉による墨書の箱書がある。その作が世に出るのは時折であり、説明が最も多いとする真鍮地に、絵画のように構成した山水や芦雁を表した在銘の鐔は、説明が最も称える彼の一面を示す。