松尾月山は幕末の京都大月派の金工である。説明はその身元を詳しく記す。本名は松尾嘉六といい、文化十二年(一八一五)に京都で生まれ、明治八年(一八七五)に六十一歳で歿し、金剛斎・東窓亭と号して銘を切った。説明は彼を大月派の川原林秀興の門人(篠山篤興と同門)とし、一記録は同門の篠山篤興・天光堂秀国らと切磋琢磨した上手とする。地と彫口は大月派の家風で、赤銅・真鍮・鉄・四分一等の地がねに高彫色絵を施し、図に応じて片切彫も見せ、説明は本作に大月一派の作柄を素直に読み取る。説明が彼の個人の特色として明示するのは二点で、鐔の製作が多いこと(後藤の小道具ではなく)と、武者絵をはじめ人物画を得意とし、鳥類・動物や獅子をも汎く手懸けたことである。最も名高い作は前九年・後三年合戦の一場面を画題とした「衣川館」図鐔で、彼の代表作の一枚と称せられる。本群には大津絵の画題で全体を統一した拵が一点あり、各金具がまじないの意を負う。本群は四点と極めて薄く、いずれも重要(重要刀装具)であり、町彫一般から彼を画する真の分離点はごく限定的・低頻度である。本稿は彼の身元・略伝・銘の変遷を、説明(カタログ記録)のみから読む。(補:月山の号は刀工の名跡としても名高いが、この月山は京都大月派の軟質金工の装具作者で、その刀工の系とは別である。)
鑑定の決め手
説明は彼の得意を、武者絵をはじめとする人物画とし、鳥類・動物にも汎く及ぶとする。名高い「衣川館」図鐔は九年合戦の場面を彫り代表作の一枚と称せられ、大津絵の拵は俗画の人物を各金具に配する。四点中三点に明記される。絵画的な人物画は同門の篤興・秀国と分かつ大月派の家の相でもあるが、彼を人物・武者の作者と明示する点は説明が読む彼自身の彫口である。四点の母集団では最も繰り返される分離点だが、なお低頻度である
説明は二度にわたり、彼が鐔の製作が多く師流をよく受け継いだとする。本群四点中三点が鐔である(龍図・孔雀図縁頭の揃・衣川館図)。格式の後藤家の小柄・笄・目貫の本領と対置される。四点中二点に明記され、低頻度ゆえ限定的に取る
地金
説明は彼の得意の地金を赤銅・真鍮・鉄・四分一とする。本群では鐔を鉄磨地・赤銅魚子地に彫り、大津絵の拵は縁頭を朧銀磨地、鐔を赤銅地とし、素銅の色絵を交える。地は磨地・魚子地とし、絵画的な高彫に適わせる。
技法
技法の骨格は高彫を色絵であらわす大月派の家風で、本群に及び、片切彫(説明はまま片切彫も見せるとする)・毛彫・据紋・容彫の目貫・平象嵌を図に応じて交える。龍図鐔・武者図鐔では、鉄地に対する金象嵌の分量の均衡と、微細で確かな鏨使いを説明が称え、一記録はその処理に大月一派の手際を読む。
画題(絵風)
画題は刀装具に運ばれた大月派の絵画的意匠で、人物・武者を筆頭とする。九年合戦の一場面たる「衣川館」図(八幡太郎義家と阿部貞任)、蕩々と飛翔する金龍、孔雀、そして大津絵の画題で全体を統一した拵(藤娘・矢の根五郎・鬼の念仏・鷹匠・弁慶・瓢箪鯰・槍持奴)に及ぶ。説明は彼の人物画の冴えを挙げ、思い切った構図と上品な仕上げに大月派の作柄を読む。
絵風の人物・武者
人物・武者の主題を鐔の小天地に絵画のように構成し、高彫色絵であらわす大月派の風。説明は人物画(とりわけ武者絵)を彼の得意とし、衣川館の合戦図鐔を代表作の一枚とし、大津絵の拵は俗画の人物を各金具に配する。
鳥類・動物・霊獣確証はやや弱い
鳥類・動物・霊獣で、説明は彼が鳥類や獅子・狗児など動物画にも汎く手懸けたとする。鉄地に蕩々と飛翔する金龍、赤銅魚子地の雌雄孔雀の揃などがある。本群では人物画に次ぐ副次の相である。
画題一覧 銘の変遷
採録銘 資料注記
銘の変遷と彼が負う名が作の年代と真贋を定め、説明はその身元を明記する。中心の銘は本名の松尾月山で、しばしば「作」字を添える。ほかに号を冠した金剛斎月山、京都在住を冠した平安住人金剛月山を花押とともに切り、二字の月山は一鐔に鼎形の印銘として見える。本名は松尾嘉六、号は金剛斎・東窓亭で、説明は彼を大月派の川原林秀興の門人とし、文化十二年に京都に生れ明治八年に六十一歳で歿したとする。単独の月山の号は名高い刀工の名跡と同じだが、本群では彼の軟質金工の銘である。本名の嘉六と号の東窓亭は略伝のみの名で、本群では銘としては切らない。
研究本群の一拵(四点中一点のみ)に、近世初期から大津辺で売り出された民衆絵画たる大津絵を画題に採り、各金具がまじないの意を負う作がある。その一記録は大津絵を諷刺を交えた明快な戯画の系として詳しく説く