石黒是美は、横谷門石黒派を代表する政美の子で、通称を寛次郎という。同派の是常に学んで修行し、師である是常と父である政美の工銘を一字ずつもらって是美と名乗った。父と共に石黒一門を繁栄させた実力の持主であり、天保の年紀作が見られる。明治二十年までの生存が確認されている。寿鶴子、寛斎等の別号がある。
石黒派が得意とした花鳥図を高彫色絵であらわす作風を特徴とする。赤銅魚子地を基本とし、高彫、金色絵、金据文、象嵌、哺金など、多様な技法を駆使する。特に、緋色銅、銀、素銅などを巧みに用いた色絵の色彩感覚に秀でている点が評価される。作例として、柏・松梅の樹上から雉子・鶴雀を狙い、捕らえた処を描写した猛禽図や、竹に雀図などが見られる。金無垢地を用いた目貫の作例も見られる。
是美の作は、「細緻な鏨法」と「豪華な色絵」が特徴であり、石黒派の本領を示すものとして評価されている。「高彫色絵の彫法」と「高肉に彫上げた金紋」とを見事に融合させ、豪華で量感溢れる作品に仕上げる手腕は特筆される。石黒派は元来花鳥を得意とし、就中、錦鶏鳥はそのお家芸とも称すべきもので、その華麗さは当時流行の錦絵にも通じるものがある。華麗であってしかも卑しくないところに、是美の技術の高さが認められる。是美の作は、石黒派の特色を遺憾なく発揮した会心の作と評される。