広正は、その僅かな在銘・年紀の作が、末期相州のうちでも最も数代に分かれた名跡の一つを定める、室町中期の相模の刀工である。現存する四口の指定作のうち三口に年紀があり、宝徳二年(一四五〇)・康正二年(一四五六)の太刀、文安五年(一四四八)の脇指が、いずれも生ぶ茂に相州住広正と切り、この年紀作に一系が掛かる。説明書はその難しさを明記し、広正の名が南北朝期から室町期にわたって連綿と活躍した数代に切られ、いずれも上手であるが、有銘のうち年紀のあるものは極めて少いとする。その語るところ、「広正は同名が何代かあって、南北朝期から室町時代に及んで活躍しており、それぞれに上手であるが、現存する有銘且つ年紀のあるものは極めて少い」。本工は相州三代広正と伝え、正宗とその後継の広光・秋広の相州伝を室町時代に伝えた末相州に属する。
その作風の見どころは、互の目乱れの皮焼である。焼に飛焼を交え、四口中三口ではこの飛焼が湯走り・棟焼を伴って広がり、末相州がその標識とした皮焼となる。匂口は締まりごころ、小沸よくつき、足・葉入り、砂流ししきりにかかり、最も遅れる刀では金筋・丁子風の刃に小互の目を交える。これは鎖倉の祖たちの抹えた直刃・小乱れから転じた、相州伝の室町的な register である。最も静かな文安の脇指では飛焼が全面に及ばず物打辺に集まるにとどまり、同じ手が皮焼の手前の互の目交りの小乱れに控える様を見ることができる。
地鉄は、その焼を起こす肥えた相州の地鉄である。小板目をつめるときもあれば、板目が背立ちて肌立ちごころに開くときもあり、一口には大肌を交えて地沸がつく。造込みは室町中期の相模の体配で、鋎造の太刀・刀は身幅尋常に先反りつき中鋒となり、時に寸詰まりで反り深く、脇指は平造に寸延びて先反り高くつく。帽子は乱れた焼に応じて乱れ込みとなり、あるいは一枚風に長く返り、康正の太刀では掛けて尖りごころに返る。表裏に梅字・草の倶利迦羅を彫り、腰樋・棒樋の中に三鈷剣・護摩筸を浮彫で据え、彫は緻密で浮彫の起こりよい。説明書はこの彫物をいずれの作にも見どころとして数え、宝徳の太刀について「地刃に時代の様相と相州物の伝統的な作風を見せ、彫物もまた特色あるもので見事である」と記す。
各代の区別が明確にし難いため、年紀ある生ぶ茂の在銘作は、出来と同時に資料としての役を兼ねる。第二十五回の無年紀の刀は他の作によって宝徳頃と見られ、説明書は「年紀作は稀であり、各代の区別は明確にし難い」と明言する。そこで記録は、現存するわずかな年紀に他の作を掛けて読まれ、文安の脇指はその実例を加える。その年紀は、后に棒樋を彫り足した折に茂裏の底銘となったものかとされ、判読は出来るが惜しまれるという。手はこの四口を通じて一つの相州の作風として読まれ、皮焼と静かな物打焼の間の振れ幅は、別の工のしるしではなく、一つの作風の幅である。
相州の系のうちで、広正は創始の端ではなく作業の中核に立ち、肌立つ板目に皮焼を焼き巧緻な彫物を伴うという末相州の技倣のうちにある。沸づく地刃と尖りごころの乱れた帽子が本工をその伝のうちに置き、説明書はその一口一口を時代そのものの現れと読み、康正の太刀を「この時代の相州物の典型的且つ代表作の一口」とする。本工が伝える系は、小田原相州の本流に連なる。一派の説明書は、天文年間に活躍した初代綡広が広正の子孫で、北條氏綱に召されて小田原に居住し、綡の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで及ぶとする。広正の室町中期の手は、皮焼と信仰の彫物において、後年の小田原の綡広・綡家らが幕末まで伝えた基本の作風の一つに立つ。
広正は、僅かながらいずれも在銘の指定の記録によって知られる。すなわち重要刀剣第十七回の脇指、第十八回の太刀二口、第二十五回の刀で、いずれも生ぶ茂に相州住広正と切り、三口に年紀がある。藤代の位列は上作とされ、説明書はその作を出来見事の優作とし、年紀の太刀の出来を見事とし、彫物を特色あるものとする。その作に国宝も重要文化財もなく、伝来の記録もないため、本工の位置を正直に量る尺度はその希少そのもの、すなわち数代が二世紀にわたって切った名のうち、生ぶ茂に年紀を伴うわずかな遗作にある。個人の収集家にとって、その刀はまれにしか出会わず、四口とも重要刀剣の位で、国の文化財として封じられてはいないが、市に出ることも頻ではない。在銘年紀の広正は、説明書が数代に分かれた名の基準作として掲げる類の一口であり、末期相州を学ぶ者にとって、出会えば静かな勘どころとなる。そこには、相州伝の室町の register が一口のうちに読み取れるからである。