綱広は相州伝の掉尾を飾る刀工である。現存最古の年紀は天文(一五三二~五五)に遡り、説明書はその初代を室町時代の相州鍛冶の代表とし、「室町時代の相州鍛冶の代表は相州伝の作風を最もよく守り天文年間に最も活躍した初代綱広であった」と記す。初代は広正の子孫と伝え、初銘を正広といい、北条氏綱に召されて小田原に居住し、綱の一字を賜って改名したという。以後その名は連綿たる名跡となり、二代を天正、三代を慶長、さらに寛永・万治へと及ぶから、「綱広」は単一の手ではなく後北条氏のもと小田原に代々続いた工房を指す。在銘・生ぶがほぼ全きで、五字銘「相州住綱広」を指表の棟寄りに低く切り、天文十七年(一五四八)の太刀と天文廿二年(一五五三)の脇指とが、後代の拠るべき初代を定める。
見どころとなる手は、皆焼へ向かう末相州の乱刃である。互の目乱れに丁子・矢筈の刃・尖り刃・小のたれを交え、先へ刃幅を増して焼くもので、沸よくつき砂流しを交え、飛焼・棟焼を地に及ぼして総体に皆焼となる。互の目に組まれて先へ向かう矢筈の刃は、典型作とする際に説明書が繰り返し挙げる刃文の見どころである。皆焼は説明書が同工の本領とする作域で、広光・秋広以来の手とされ、「広光・秋広以来の巧者で作風は彼等が創始したと伝える皆焼に見るべきものがある」と記される。ある脇指の皆焼は三日月状の飛焼を見せ、説明書はこれを「皆焼刃に三日月状の飛焼を見せるなど同工の特色をよく示し」と評する。
この皆焼を支える地鉄は刃と併せて読まれる。板目に杢・流れ肌を交えて肌立ち流れ、地肌は締まらず開き、地沸よくつき地景が入り、この開いた地鉄の上に飛焼・棟焼が散り集まって皆焼となる。肌立ちは自作の半数、流れ肌は三分の一に明記され、末相州の地鉄そのものが見どころの一部をなして単なる下地ではない。帽子は乱れ込みに小丸または尖りごころで返り、しばしば掃きかけ、返り長く焼き下げる。彫物はさらに顕著な見どころで、真および草の倶利迦羅、蓮台に梵字、八幡大菩薩・南無妙法蓮華経などの陰刻文字があり、説明書はこれを末相州物の特色として繰り返し挙げ、同工の作では美事に施されるとする。
この華やかな本領に対し、記録された変り出来がある。天文十七年の太刀は皆焼の作域を離れて中直刃調に小互の目を交え足入り、匂口締りごころに小沸つくもので、説明書は同工には珍しい出来とし、短刀・脇指にも間々これがあるとする。代別はもう一つの軸である。説明書は通説の代別、初代を天文、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃とする説を掲げ、年紀なき数口を体配によって鑑する。幅広・寸延びて先反りの強くつく脇指は元亀・天正頃とされ、数口の鎬造の刀は三代を降らないと読まれ、さらに詳しい代別は「今後の研究に俟ちたい」と明記される。手は連続しており、肌立つ板目・杢に矢筈の互の目乱れを焼く同じ作域であるから、後代の作も作風の変化によってではなく襲名の作域によって綱広と認められる。
彼を分かつものは、他工を借りずに自らの確かな特色から読まれる。説明書はその皆焼を襲ぐ南北朝の名手と比較するが、その比較は両刃である。彼は広光・秋広の系譜に置かれながら、重要美術品の短刀においては「刃文は広光、秋広と形状を異にしている」とされ、襲ぐべき名手その人とその手が区別される。彼自身の見どころは、互の目乱れに組まれて先へ広がり皆焼に覆われる矢筈の刃であり、肌立ち地景を交える板目であり、倶利迦羅と陰刻文字に密な彫物である。相州の系譜の最末に立ち、説明書のいう相州伝の掉尾を飾る工であって、天文の初代がその記録された起点となって後の工房全体が代別される。説明書は末相州のうちに彼を「綱広は末相州にあって知名度が高く技量も高く」と記し、作刀も多く現存するとする。
綱広は藤代の極めで上作、刀工大鑑の評価は四百万にのぼる。その名を負う指定の重みは、稀少というより広いものである。国宝・重要文化財・特別重要刀剣はその作になく、地位はむしろ重要刀剣十口に、重要美術品の短刀一口と戦後初期の特別保存級の脇指一口を加えたものにある。この十口のうち説明書は皆焼の作を代表作とし、一口を「綱広の本領が発揮されており」と評し、他の一口を室町時代の相州物の代表作とする。来歴は格別で確かである。天文廿二年紀の脇指は後北条家の重臣桜井大学の所持銘をもち、のち明治の愛刀家にして初代東京市長大久保一翁に伝わり、天文十七年の太刀は犬養木堂翁遺愛の皮包鉄造の拵を附し、また一口は秋元左衛門五郎藤原喜栄を経て皇室に伝来する。指定刀の多くは彼の作も含めて市に出ず保たれるが、鎌倉の名作のように手の届かぬものではない。在銘・生ぶの重要刀剣の綱広は、末相州を求める者のもとに時折、根気をもって現れ、相州伝の終焉が残し得た最も報いある作の一つである。