説明

Stock number:KA-040320Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Juyo TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai):Musahi(Tokyo)・Late Edo period 1866Blade length(Cutting edge):72.6cmCurve(SORI):1.75cmWidth at the hamachi(Moto-Haba):3.28cmWide at the Kissaki(Saki-Haba):2.70cmSword tang(Nakago):1Rivet Holes(Mekugiana):Unaltered,Kattesagari file patternShape(Taihai):Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada):Itame with Jinie and ChikeiTemper patterns(Hamon):Choji and GunomeTemper patterns in the point(Bohshi):Midare,TobiyakiRegistration Card:Kanagawa【Additional Information】【重要刀剣図譜より】形状 鎬造、庵棟、身幅広く、元先の幅差さまで目立たず、鎬地を卸して鎬高く、重ね薄め、反り浅くつき、大鋒。鍛 板目肌つみ、やや肌目が立ち、地沸厚くつき、地景よく入る。刃文 丁子・互の目丁子・互の目など交じり、処々尖りごころの刃・角がかる刃を交え、足太く長く入り、匂口やや深く、沸よくつき、下半処々小さな飛焼を見せ、上半金筋・砂流し長くかかり、匂口明るい。帽子 乱れ込み、小さな飛焼かかり、先尖って尋常に返る。茎 生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一、表第一目釘孔より一字上げて棟寄りに細鏨の受領銘があり、裏は一字半上げて鎬筋を中心に年紀がある。説明 栗原信秀は、文化十二年、越後国西蒲原郡月潟村に生まれた。文政十二年、京都へ上り鏡師となったが、嘉永初年江戸に出て清麿の門下に入り刀鍛冶となった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは嘉永五年紀であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われ、独立して間もない嘉永六年には、相模国浦賀で作刀した所謂「浦賀打」が遺存する。元治元年七月、第一回長州征伐が行われ、彼は幕命を受け大坂に赴き兵器補給の役を務めている。大坂での作刀は、元治元年八月より慶応三年正月までの約二年半に亘り、慶応元年五月には筑前守を受領している。後に江戸へ戻り、さらに明治八年、越後三条に帰り、同十年には弥彦神社の御神鏡の制作を行っている。明治十三年一月二十五日、 東京本郷元町の養子信親宅に於て、六十六歳で歿している。彼の技倆は清麿一門中最も卓越しており、師清麿に迫る出来映えのものがある。この刀は、身幅が広く元先の幅差はあまり目立たず、反りが浅く大鋒に結ぶなど新々刀期の特色を有す刀姿を呈しているが、鎬地を卸し鎬 高くして重ねが薄めとなり、大鋒もフクラを敢えて枯らすなど総体に鋭しい造込みに清麿門下としての特色がよく示されている。鍛えは板目に地沸が厚くつき、地景がよく入って肌目が立ち、刃文は互の目・互の目丁子・丁子などが交じり、足は太く長く入り、匂深で沸がよくつき、刃中の金筋・砂流しは長くかかり、中でも角がかる刃や尖りごころの刃を交え、大きな互の目の頭が小さな乱れに分かれる態を見せるなど信秀の手癖も表れている。また、帽子が道中の勢いそのままに乱れ込み、先が尖って返る様は覇気があり、大鋒の鋭しい姿や地刃の豊富な変化と併せて本作の迫力をより高らしめている。

Katana[Chikuzen-no-kami Nobuhide (Kurihara Nobuhide)][N.B.T.H.K] Juyo Token
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売却済

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仕様

長さ

72.6 cm

反り

1.75 cm

元幅

3.28 cm

先幅

2.7 cm

作者について

Kiyomaro Nobuhide信秀

34 重要刀剣

栗原謙司信秀は越後三条に生まれ、初め鏡師を業とし、嘉永三年頃に至って江戸四谷の山浦清麿の門に入り、刀の道に転じた。師の門人のうち、説明書が最も源に近く置くのが彼である。受領以前の作を評して、説明書は「その技術は一門中、最も師に迫るものであり」と記す。慶応元年五月に筑前守を受領し、大坂に三年住して江戸に戻り、廃刀令の後は故郷の越後に帰って僅かに鍛刀し、明治十三年に歿した。信秀、多くは平信秀、受領後は栗原筑前守平信秀と銘した。清人と並んで、嘉永の四谷正宗の相州復古を幕末・明治初年に伝えた二人の手の一人である。 狙うところは師の作風、その中でも清麿が最も得意とした志津の調子である。説明書は端的に、その作が「師に似て志津伝を得意としている」と述べる。刃文は互の目乱れに尖り刃・角がかった角互の目を交え、丁子ごころが入り時に交じり、足・葉よく入る。働きは沸の深い刃のそれで、小沸よくつき、砂流しかかり、長い金筋が頻りに入り、匂口は明るく冴える。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、しばしば掃きかけ、時に先突き上げて小丸となる。身幅の広い平造の脇指に、この手が全き力で読まれる。説明書はある一口を「覇気あふれる出来で、砂流し、金筋頻りに働いて力強い」とする。 地鉄こそ清麿への近さが最もよくあらわれるところである。流れてやや肌立つ板目に時に柾・杢を交え、地沸厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。映りはない。これは志津を経て相州に遡る新々刀の手であって備前の手ではなく、その明るさは地刃の沸に宿り、映りには宿らない。姿は堂々として身幅広く、重ね薄きものあり、反り浅く、切先延びあるいは大鋒となり、先反ごころのものも見る。この強さに対し、説明書は継承の限りについて率直である。その覇気と迫力は師に遠く及ばないと一再ならず記し、しかも作の器用さは異論がないとする。 彼ひとりの見どころ、一派中で彼だけの手は彫物である。鏡師の修業が他工にない金属の手を与え、説明書は山浦一派において「山浦一派では彼の刀以外に彫物がない」と記す。図柄は多彩で取題に独特のものがある。草の倶利迦羅、珠追竜、竜乗り観音、腰元の天鈿女命・山桜花、二筋樋・棒樋の下の梵字・素剣。明治元年以降は金工加納夏雄に学んで彫法著しく変じ、浅い肉合彫風となる。彫物に伴う造込みが片切刃造で、説明書は信秀に片切刃造がまま見受けられるとし、身幅の広い平造の寸延び脇指と併せ見る。彫物こそ彼の作の眼目であって、ある彫物のない刀について、説明書はその不在を讃に転ずる。彫物がないだけに、かえって「却って師清麿に見紛う程の出来」と評するのである。 師と彼とを分かつものは説明書自身が名指すところであり、それは種ではなく程度の差である。同じく流れる板目に地沸厚く地景入り、同じく沸深い互の目乱れに砂流し・金筋、同じく尖る帽子を焼く。されど清麿の手が覇気において圧倒すると読まれるのに対し、信秀の手はそれに最もよく迫った手、一門が達した最も近い手と読まれる。清麿門の中で彼は彫物の手であり、大坂・越後流浪の手であり、銘と受領によって年代と所在の知れる手である。すなわち彼は、短く激しい生涯ゆえに一層神話化された開祖を持つ一派の、開かれた知り得る面である。 収集の観点では、確かな質を備えた手に入れ得る清麿一派の名である。藤代の極めは上々作、刀剣美術の評価も新々刀中で高い。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通り、在銘の刀・脇指・薙刀が三十口余り指定されている。来歴は広汎というより、確かで歴史に響くものである。慶応元年の片切刃の脇指一口は、説明書によれば「将軍慶喜に献上のものである」とし、また一口は故郷越後三条の八幡社に伝わる。指定の作の多くは伝えられて商われることなく、商い得る級はわずかであるから、在銘の信秀が世に出ることは時折に限られる。世に出たそのとき、それは収集家が清麿相州の手を、在銘・年紀を備え、しばしば自らの彫物を伴って手にし得る、最も報いある道の一つである。

刀剣商

銀座誠友堂

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