室町期の長船は二層の商いを営んだ。兵卒のための数打ち物と、注文主の俗名を銘に負う注文打ちである。末備前であっても、祐定の最上作は一派のいかなる時代の作にも劣らない。
TANTO SHIRASAYA BIZEN MAGOURMON KIYOMITSU Bizen Magouemon Kiyomitsu, c. 1558 was a Sue-Koto smith who work in the late Muromachi era. According to the literature, Magouemon Kiyomitsu is a representative smith of this period. He and Gorouzamon Kiyomitsu were the two best smiths within the Sue-Bizen group. Magouemon excelled in forging suguha but worked in other styles as well. His blades were known for their superior cutting ability, for which his works are documented and rated O-wazamono according to Yamada Asuemon Yoshichika’s, Kokin Kaji Bikosen. Magouemon is rated Josaku by Fujishiro for quality. It is well known any smith listed in Fujishiro’s is far above average in quality. One hundred years of the Muromachi period (1392-1596) fell within the Sengoku Jidai or warring period of 1467-1615. During this time of war, many swords were required by the various regimes resulting in their mass production. These mass-produced swords are known as Kazuuchi-mono which literally means “made in large numbers”. They were also referred to as tabagatana or “bundle swords”. Chumon-uchi, a term developed to distinguish between the mass produced kazuuchi-mono and the higher quality swords. Chumon-uchi literally meaning the opposite of kazuuchi-mono or, “made to order” opposed to mass produced. Chumon-uchi were signed using the smiths common or first name such as Magouemon. This type of mei is known as Zokumyo or Zokumyo-iri, a term indicating the mei contains the first name of the smith and is Chumon-uchi. This Tanto is in excellent polish and exhibits beautiful utsuri. Gorgeous Tanto made by one of the two best Bizen smiths of the period. It is signed Zokumyo mei and is Chumon-uchi. The sword is housed in shirasaya.
















販売店の記載のまま
Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1558-1571頃
現在4点販売中
元亀二年(一五七一)紀の刀で、「備前国住長船孫右衛門尉清光作之」[[c:1]]と長銘に切るこの一口は、説明書が本工の標準として掲げる打刀であり、地がねを極めてよきものとし、広直刃に小足・葉のよく入るものとして、これを清光作の傑作であるばかりでなく、「この時代の同派の典型的且つ代表作」[[c:2]]とする。清光は室町時代末期の長船鍛冶、汎称して末備前と呼ばれる工房群とその作を代表する名の一つで、この数多い名の中にあって説明書は二人を上工として挙げる。すなわち五郎左衛門尉と孫右衛門尉であり、本録を満たすのは後者である。本工は孫右衛門尉を冠して永禄・元亀年間(一五五八〜一五七三)に働き、説明書はこの俗名に二代があるとして、本録の作をその二代と鑑する。本録の作はいずれも生ぶ茎に在銘・年紀を有する刀であり、末備前の名としてはほぼ余すところなく知られる作群で、長船を冠する長銘を帯びるものもある。
本工の評価はまず直刃にある。説明書は孫右衛門尉を五郎左衛門尉と並ぶ清光中の技術の高い工とし、ともに直刃を得意とするとして、その広直刃を清光一派の特色そのものとする(「清光一派の特色」)。別の説明書も同じ評価を端的に、「清光は乱刃もあるが直刃が一般に上手である」[[c:11]]と記す。典型の刀は身幅広く重ね厚く、鎬高く先反りのつく頑健な打刀で、中鋒やや延びごころ、あるいは大鋒となり、これに小互の目や丁子風の刃を交えた広直刃を焼く。刃中に足・葉繁く入り、匂口締りごころに小沸つき、最上手の作では明るく冴え、細かに砂流しかかる。頑健な姿にこの手を焼き、刃の働きよく匂口の冴えたものを、説明書は直刃を得意とする清光の本領がよく示されたものと評する(「直刃を得意とする清光の本領がよく示されている」[[c:3]])。
その刃を支える地鉄もまた、本工の見どころの一半をなす。よくつんだ板目・小板目に地沸つき、優れた作には地景細かに入る。本工の地鉄を際立たせ、説明書がことに名指すのは、忠光・祐定が肌をつめるのに対し、清光は板目に杢を交えてやや肌立たせる点で、説明書はこれを本工の特色とする(「板目に杢が交じって肌立つ鍛えに特色がある」[[c:4]])。例外がかえって常態を語る。元亀の刀など最上手の作では、同じ説明書がその小板目を「叢なくつんで」精緻な肌合と評し、地鉄の出来がこれらの一口を常の作から抜きん出させている。帽子は直刃の作では直ぐに小丸、先掃きかけごころとなり、互の目乱れの作では乱れ込んで先尖り、あるいは複式の作では表小丸・裏尖りごころとなる。
この静かな作域に対し、本工はより華やかな第二の手を焼き、説明書はこれを逸脱ではなく本工の典型として扱う。その見どころは腰の開いた互の目、複式となり、小互の目や尖り刃を交え、あるいはのたれに角張った刃を交えて、足・葉入り、小沸つき、砂流し・金筋かかり、棟焼・飛焼の入るものである。説明書は小沸のついた腰の開いた互の目をもって与三左衛門尉祐定に似たものとし(「与三左衛門尉祐定にも似て」[[c:5]])、これらを本工の互の目乱れの代表作とし(「孫右衛門尉清光の互の目乱れの代表作」[[c:6]])、他の末備前刀工と同様に作域が広く大湾れ・皆焼・互の目乱れに及ぶとする。姿そのものも読みの一部であり、説明書はこの期に至ると「寸法も長くなり、茎も両手で使用するに適した」[[c:7]]長いものとなると記す。幅広で大鋒の最末期の姿は、室町の終焉を示すものである。
末備前の中で孫右衛門尉を際立たせるものは、対比によってではなく本工自身の作によって読まれる。小互の目を交え足・葉の繁く入る広直刃は説明書が本工の名に結びつける手で、その作域中もっとも静かなものであり、一方の腰の開いた互の目に棟焼・飛焼を交えるものは、その作域を祐定の方へ、また末備前の華やかな好みの方へと広げて、説明書はその一口を孫右衛門尉清光の直刃の代表作とも称する(「孫右衛門尉清光の直刃の代表作」[[c:8]])。忠光・祐定は直刃を共にするが、板目に杢の交じる肌立った地鉄こそ、本工の直刃を彼らの直刃から見分ける見どころである。本工の作には在りし日を時と所に定める注文者銘を帯びるものが幾口かあり、就中、備前の守護代浦上宗景を名指すもの、宗景のために重宝として鍛えた一口、天神山城において宗景の末代のために鍛えた一口などがある。説明書はこの注文者を守護代浦上宗景に比定し(「この紀宗景とは備前の守護代浦上宗景のことであろう」[[c:9]])、これらを本工の地位を知る資料として貴重とする。
その名に負う指定の重みは、広大ではないが堅実である。十口が重要刀剣であり、いま一口、元亀二年紀の刀は本間による御物台帳に所載される。特別重要刀剣やそれより上の指定の域に及ぶものはなく、指定の頂ではなくその中上層に築かれた記録であり、指定因子も刀工の長い列の下方に位置する。来歴は薄く記されるにとどまり、もっとも確かな手がかりは、後の所有者の列ではなく刀身そのものに切られた浦上宗景の注文者銘である。確かな在銘・年紀の孫右衛門尉清光の作は末備前の名としては相応の数が遺り、説明書がその手の傑作とする生ぶ茎在銘の一口(「清光作の傑作であるばかりでなく」[[c:10]])は、待つ収集家にとって末備前の大家の中ではなお出会い得る側にある。重要刀剣の域は折にふれて現れ、肌立った地鉄に明るい広直刃を焼いた在銘・年紀の永禄の刀は、現れればそれが一つの画期となる。本工は、ついに到らなかったより稀なる域に求めるよりも、かかる正直な、来歴の確かな一口を通して相見えるべき工である。
清光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在18点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町期の長船は二層の商いを営んだ。兵卒のための数打ち物と、注文主の俗名を銘に負う注文打ちである。末備前であっても、祐定の最上作は一派のいかなる時代の作にも劣らない。
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