高橋良次は天保十三年(1842年)、江戸の金工東雲斎寿次の一族に生まれた。はじめ父と柴原寿良に彫金の技を学び、のち幕末の名工東龍斎清寿(田中清寿)の門人となった。説明書は良次を「東龍斎清寿門下の上手の一人」とし、門下に岡田雪峨がいるとする。明治六年(1873年)、三十二歳の若さで世を去った。
指定の記録において良次は、それぞれに一作金具を備えた四点の拵によって知られる。幕末の打刀拵では、縁頭・長鐺・口金・栗形から目貫・鐔に至るまで全てが金無垢で、魚子地に金・銀・赤銅の据文、平象嵌、毛彫、片切彫を施す。幕末に流行した突兵拵では、良次の金無垢の総金具が枝菊図を高彫色絵にあらわし、鐔は松崎成寿、鞘塗は陸遊斎の手になる。
その画題は吉祥と文人趣味の意匠を拵一具に通すものである。打刀拵では扇散しの地紙に林和靖、亀、若松・福寿草・蘭・牡丹、梅・竹・菊などを配し、黒蠟色塗の鞘と合わせて歳寒三友・四友・四君子をあらわす。説明書はこれを「黄金の輝きの豪華と意匠の雅が見事に融合されている」と評する。突兵拵もまた総体で四君子の意匠とし、説明書はその上手の作例で「いかにも江戸前である」とする。
大小拵はより穏やかな趣を見せる。鞘は共に鉄刀木で、大は鐔を付けた打刀形式、小は合口の形式をとり、良次一作の金具は秋草文の意匠で統一される。大の縁頭は金無垢磨地に高彫、鐔は赤銅磨地に金銀平象嵌、小の金具は銀磨地に金・赤銅の象嵌色絵である。説明書はこれを「渋味ある鉄刀木の鞘に秋草文の金具類が鮮やかに浮き立った品のよい大小拵である」とする。
記録に残る最も遅い作は、鯉口に「庚午冬日」(明治三年)と切った合口短刀拵である。金具はすべて金無垢の菊花図で、小柄・割笄は鋤出高彫、目貫は良・次と割際端銘に切る。説明書はこれを「高橋良次の感動的一作金具でまとめ上げた拵である」とし、「明治六年に三十二歳の若さで世を去った良次の力作である」と結ぶ。
指定を受けた四点はいずれも重要刀装具で、三点は江戸末期、一点は明治初年の作である。短い生涯のため作は少なく、金無垢の一作金具を揃えた拵は、幕末金工を集める者にとって出会うことの稀なものである。