義助は駿州島田派の主流をなす名であり、室町期のこの工房を、説明書は島田の作すべての筆頭に置く。「島田物の主流をなすものが義助」とある重要刀剣の説明は端的に記し、同名は数代にわたってその地位を担った。参考書はその代を、初代を康正の頃として康正と称し、二代を明応・永正の頃とし、以後江戸末期まで連綿として続くと並べる。だがこの整然たる図式は答えではなく難所である。永正より古い年紀の作は現存せず、現存最古は永正二年(一五〇五)の短刀で二代とされるからである。銘振りもまた各代を分かたぬため、説明書は各代を確かには区別し難いとし、在銘の義助は代を付すより出来によって見られる。
本工の典型は末相州風の乱れである。板目の地に互の目を交えた湾れを焼き、両者は指定六口中五口に現われ、小丁子・尖り刃を交え、小足入り、匂口締りごころに小沸つき、刃中を砂流し・金筋が走る。その縁は明記される。ある刀について説明書は、島田の作風が「末相州鍛冶と深い関連があって互いに影響しあっている」と記す。帽子は乱れに従い、小乱れあるいは尖りごころの乱れ込みとなって返り、ときに焼詰めとなる。この典型に対し、NBTHK自身が注記する別貌が立つ。ある後期の刀の説明はこれを「義助には少ない細直刃」と呼び、そこでの刃は細直刃に小互の目を僅かに交え、小沸つき、ほつれごころとなる。
地鉄は両様の手を支える確かな地である。鍛えは板目、よくつみ、ときに詰んで、総体に流れて柾に寄り、半数の作にやや肌立ちごころを示し、地沸が細かに入り、一口の地は白ける。締まった備前地ではなく、この流れてやや肌立つ板目こそが目に島田の手を告げ、刃中の沸の働きを載せる地となる。屈指の作ではその結果として地刃が冴え、説明書は永正二年の系譜に連なる十二回の刀を、現存作中「地刃の出来が最もよく冴えて明るく」出来優れた一口とする。
島田の工房は造込みが多彩で、義助の指定作もそれを示す。先反り強き鎬造の刀から、平造の脇指、内反りの短刀、そして大身槍にまで及び、説明書は「島田一門には比較的に槍が多い」と記して、その大身の槍を中でも優品の一口とする。彫物は一門の特色を巧みに伝え、幅広の樋中に梵字と摩利支天を浮彫にし、脇指の表裏に真・行の倶利迦羅を、短刀に素剣・護摩箸を掻く。茎は生ぶに切り、二字の義助あるいは三字の義助作で、ときに細鏨大振りに切る。年紀も銘も各代を分かたぬゆえ、説明書が量るのは銘ではなく一口ごとの出来である。
義助を分かつものは、対比によるよりその自らの確かな見どころから引くのがよい。すなわち末相州の影響を受けた沸の互の目交じり湾れに、砂流し・金筋を交え、流れてやや肌立つ板目に焼く、駿州の地における末相州風の読みであり、細直刃はその意図された例外、目立つ彫物と槍は周囲の島田工房の印である。代の判定が成らぬところで、説明はやはり作そのものに向かい、二十回の生ぶ茎・平造内反りの短刀を「同名中の出色の一口」と称し、別の刀を現存最古の系譜に近い作と読む。ある刀の物打の棟に打たれた切込みは別に評を引き、説明書はそれが「物打辺の棟の切込みも武を物語る」とし、これらが室町の一国の実用刀であったことを思わせる。
義助は藤代の極めで中上作、第一級というより堅実な地方の格であり、指定の記録は小ぶりにして悉く在銘である。指定は重要刀剣六口、特別重要刀剣・重要文化財・国宝はなく、その作は文化財として永く市を離れるものではなく、重要刀剣以下の作として世に見える。一口は皇室の所持にかかる伝来をもつ。指定を受けた作は数少なく、一名のもとに分かたれぬ数代の中で、最上の刀・短刀に説明書が称えるあの冴えをそなえた確かな一口こそ待つに値する。さような作が市にかかるのは折に触れてのことであり、現われればそれは末相州の伝に近き、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。