大阪にある一刀、昭和四十一年の第十四回重要刀剣に指定されたこの作を、説明書は「地刃健全にして、助宗の最高作と思われ」るものとし、この工の格を示す。助宗は主流の義助とともに駿州島田派の二大名跡の一であり、室町期のこの工房は、東海道の美濃と末相州の鍛冶場の間にあった。説明書は助宗を祖義助の弟として室町中期に置き、その地位は数代にわたって新刀期まで担われた。参考書はその手を長き連なりに並べ、古く文安・文亀の頃の助宗作を挙げ、次に天文の助宗を載せるので、名は室町の一世紀を通じて続く。銘振りもまた各代を分かたぬゆえ、在銘の助宗は代を付すより出来によって見られ、年紀は、遺るところでは、銘に成し得ぬことを成す。
本工の典型は、説明書が一門自身のものと呼ぶ連れた互の目である。板目の地に、連れた互の目を互の目丁子・尖り刃を交えて焼き、腰の辺で箱がかったのたれとなることもあり、沸厚く飛焼・金筋・砂流しをかけ、匂口明るい。令和二年に指定された長寸の刀について、NBTHKは「島田派の特色である互の目が連れ」と記し、その匂口明るく金筋・砂流しかかるを「助宗の特色のよく現われた」ものと読む。帽子は乱れに従い、乱れ込みから小丸となり掃きかけかかり、最大の作では沸強く沸崩れごころとなる。これこそ説明書が末相州鍛冶に、末関に、千手派に結び、美濃・伊勢の作に近しと読む手である。
地鉄は刃を支える確かな地である。鍛えは板目、よくつみ、ときに詰んで、総体に流れて柾に寄り、地沸が入り地景が交じり、肌の開くところは肌立ちごころを示す。令和二年の刀ではその地を、板目つみ部分的に流れて柾がかり、地沸微塵に厚くつき地景よく入るものとし、締まった備前地ではなく相州地鉄の駿州の読みとする。この流れてやや肌立つ鉄の上にこそ刃中の沸の働きが載り、屈指の作はその結果の冴えを、匂口明るく金筋・砂流しの流れることをもって称えられる。
指定作は島田工房の造込みの幅を示す。説明のある五口のうち四口は鎬造の刀で、強き先反りあるいは太刀風の腰反りをもち、うち一口は八〇糎の太刀風の雄勁にして働きに富む作であり、五口めは平造、無反りの尋常な短刀である。その短刀において手は一門のいま一つの別貌に移り、流れる板目に小互の目を交えた直刃を焼き、砂流し・金筋が現われ、説明書はこれを「志津などの風をねらった」作と読んで、銘鑑の天文の助宗よりは古いものと鑑する。彫物は一門の特色を巧みに伝え、梵字・草の倶利迦羅・爪附剣・丸止めの二筋樋・護摩箸を掻き、説明はこれを室町期の彫物全般に、また下原物に通じるものとする。
助宗を分かつものは、その自らの確かな見どころから引くのがよい。すなわち沸厚き連れた互の目に、金筋・砂流しを交え、流れて柾に寄る板目に焼く、駿州の地における末相州風の読みであり、説明書はこれを美濃・伊勢の作に並べる。短刀の志津をねらった直刃はその意図された例外、目立つ彫物は周囲の島田工房の印であり、義助・広助と同じくする。代の判定が成らぬところで、説明はやはり作に向かい、大阪の刀を名中随一の作とし、永禄年紀の刀を優品としてその「永禄年紀は資料的に貴重である」とし、長き連なりの中に一手を据える縁とする。最後の刀には更なる評を引き、太刀の如く指裏に銘を切るも、目釘孔の位置と全体の姿形よりこれを打刀と判ずべしとし、NBTHKはこれを姿に拠って読む。
助宗の指定の記録は小ぶりにして悉く在銘であり、重要刀剣五口、これより上の位はなく、その作は文化財として永く市を離れるものではなく、重要刀剣以下の作として世に見える。藤代の格にあたる刀工大鑑の数値は四五〇匁、第一級というより堅実な一地方の名にふさわしい。一口は皇室の伝来に列なり、さような所持から島田の作が市に還ることは稀である。指定を受けた作は数少なく、一名のもとに分かたれぬ数代の中で、大阪の刀に説明書が称えるあの地刃の健全をそなえた確かな一口こそ待つに値する。さような作が市にかかるのは折に触れてのことであり、現われればそれは末相州の伝に近き、一地方の名門の佳き代表となる。