広助は室町時代末期の駿河国島田の刀工で、確かな年紀は郷里を離れて鍛えた一口にある。「島田広助於甲州作之」と銘し、永禄二年二月の年紀を切る刀で、武田二十四将の一人原美濃入道(虎胤)の所持銘がある。説明は島田一派をその系図から説く。康正の頃に法名慶全と称した義助があり、その弟に助宗がいる。義助・助宗ともに同名数代数工あって、三代義助の門に広助がいる。重要刀剣の説明に引かれる銘鑑は、広助を二代義助の子、永正頃とし、二代を天正頃として、以後同名が数人いて新刀期に及ぶとする。
代数については記録が分かれる。二つの説明は「広助は一代かぎりである」「広助は一代のみのようである」とし、他は同名数代を数え、ある重要刀剣の説明は「この銘振のものは最も時代が古く、天文の頃と思われ」とする。別の一口は銘振りから永禄から天正の初め頃の作と見られている。義助・助宗・広助は島田派の代表工とされ、「この三者には永禄から天正のはじめ頃まで甲州打ちが見られる」。
三工の中で、説明は広助に最も剛健な手を認める。「島田一派では義助・助宗・広助の三工が最も上手であり、中でも広助は最も剛壮な作風を示して覇気がある」とし、また「一般に身幅が広く豪壮な作を得意としている」と記す。刀は身幅広く、重ね厚いものもあり、先反りが強く、中鋒延びるか大鋒となる。鍛えは板目に地沸つき、杢や大肌を交え、処々流れるものもあり、数口は総体に白けごころがある。一口は小板目肌よくつむ。
刃文は小のたれ・のたれ調に互の目と丁子ごころの刃を交え、角がかった刃や尖り刃も交じり、足入り、砂流し頻りにかかり、匂深く小沸つく。飛焼の入るもの、棟焼のかかる一口、金筋の入るものがあり、匂口は締りごころのものからやや沈みごころのものまである。永禄二年の甲州打の刀は「刃文は尖り互の目に小丁子交じり、沸強く、帽子は一枚となり深く返っている」。他の帽子は乱れ込んで小丸、尖りごころとなり、掃きかけるもの、返りの長いものもある。彫物は棒樋が常で、梵字・素剣・護摩箸を彫った一口は「彫物は珍しい」と特記される。作風は「相州、伊勢、美濃の影響を大いに受けた」とも、「末相州、末関、等の影響を受けたものが一般的」とも説かれる。
際立つ作が二つある。重要刀剣の一口は「同作中の白眉」とされ、「備前長義などの作風に私淑したものであろうか」と問われ、先反りの強い点を除けば造込格好もまさにそれと思われ、「刃中の働きも見事である」。片切刃造で幅広く寸延びた脇指は「島田物としては珍らしい元助・広助の合作」で、天文の終りから弘治頃の作と思われる。ほかの作にも「見事な出来栄え」「地刃の出来も出色」の評がある。銘は目釘孔の下に大振りの二字「広助」と切り、太鏨のものが数口ある。
藤代の極めは上作。指定を受けた作は九口で、重要刀剣七口、甲州打の刀にあたる重要美術品一口、本間による御物台帳に所載の刀一口を数え、台帳の説明も「広助はこの刀に見るように最も豪壮な出来が多い」と繰り返す。記録に残る伝来は原虎胤の所持銘のみである。収集家が現実に出会いうるのは重要刀剣の七口であり、それとて市に現れることは時折にとどまる。